【前回の記事を読む】冥王星の名付け親・野尻抱影と文豪・志賀直哉、出会いのきっかけは…

第一章──出会いのふしぎ

志賀と抱影

とにかくトルストイやドストエフスキーやチェーホフの主だった作品は、何日もかけて読んだ。電車のなかでも、授業の合間も、時には授業中にも、そして布団のなかでも。そのように夢中になって読んだ書籍のいくつかに、訳者としての白葉の名前があった。

白葉が志賀と抱影を結んでくれたことを知ると、なんだかうれしくなってしまった。天体望遠鏡を縁として二人は出会い、その後は頻繁に行き来をする仲となった。その交流のなかで、名刺の手渡しがあったのだ。名刺の表には

「今日久しぶりで行きかんげいされました」

と、志賀が書いている。

当時浅草に「木馬館(もくばかん)」という大衆演芸場があり、そこで上演される安来(やすぎ)(ぶし)が人気を集めていた。なかでも体格のいい「豆子」という女性を志賀はひいきにしていて、足を運んでいたのである。

名刺にはもう一つの手がかりとして、「四日野尻様」とあり、名刺の裏側を見ると、そこには正月十五日の日付がある。こちらでは書き手が変わり、抱影が書いた文字が記されている。同じ抱影のペンで、「浅草やデブの豆子の福は内」(ここでの表記は、抱影自身の記述のためお許しをいただきたい)とある。さらに、「木馬館→志賀さん→小生→宮下君」と書いてある。

木馬館の豆子は天野豆子といい、島根県安来市の生まれ。つまり安来節の本家本元の出身である。安来節は大正時代から、大阪や東京で賑やかに唄われ踊られたということだ。豆子は一九七七年に木馬館が閉館するまで出演していた。また、ここでの小生とは、抱影自身のこと。これで、関係する四人がそろったことになる。

では最後の宮下君とはいったいだれのことかといえば、この名刺を私にくださった大学時代の恩師を示している。名前を宮下(みやした)(けい)(ぞう)といい、慶応義塾大学文学部でドイツ語圏の文学作品、特に演劇関係の作品を研究し、講義をしていた人物である。