兆し
動物生態学研究所
「うわ、すごい迫力」
加奈子が感嘆の声をあげる。
「鳥がいっぱい飛んでるぅ」美南は空を見あげ、優は跳ね回る。
半分になったとはいえ、山北の森林はまだ豊かさを残していた。だが、いずれ山北西も払い下げられて開発されるのかもしれない……。吾郷はいたたまれない気持ちになる。
しばらく自然を味わったのち、シートを敷いてランチになった。
「どうだ。澄んだ空気の中で食べるおにぎりは美味いだろ」
「うん。おいしい」優はおにぎりをほおばって頬を膨らませた。「あわてて食べないの」加奈子が頬にくっついた飯粒をとる。
「東京じゃ味わえないわね。なんというか、木々の深さが違う。まるで深海にいるような気分」
「子供の頃はよく遊んだものさ。そのときは当たり前のことでなんとも思わなかったけど。こうして改めて来てみると、豊かだったんだなぁ、と実感するよ」
「わたしは東京しか知らないけど、貴ちゃんの気持ち理解できる」
加奈子は深く森のオゾンを吸い込んだ。
「あ、かわいい鳥」美南が叫んだ。
すぐ近くに淡い黒と白の産毛のような羽毛で覆われた鳥が、全く無警戒によちよち歩いている。目もよく見えないのだろうか。優が歓声をあげて駆け寄る。その瞬間だった。二羽のカラスが威嚇の声をあげて優に襲いかかった。
「あぶない!」
咄嗟に庇おうと吾郷が飛びだしたとき、ピキューッ、ピキューッ、という甲高い鳥の声とカラスの悲鳴のような声がこだました。カラスは羽をばたつかせて急ブレーキをかけ、戸惑ったように空中を彷徨う。
「さあ、今のうち」いつの間にか傍にいた女に促されて吾郷は優を引き寄せた。
「可愛らしいけど、あれはハシブトガラスのヒナ。いまは繁殖期だから親鳥がヒナを守るために攻撃的になってるの。特に森林に棲むカラスは荒っぽいから気をつけて。自然界は都会と違って外敵が多いから」
助けた女が諭すように言った。
「はい。ありがとうございます」
吾郷は礼を言って女を正視した。
「あれ! あの、もしかして立花先生ですか?」
その女も吾郷の顔を見つめた。
「……吾郷くん?」
「はい。ご無沙汰しています。覚えていてくれましたか」
「そりゃ覚えているわよ。あなたは目立っていたから。あなたこそよく覚えていたわね」
「もちろんです。立花先生は若くて美人で、男子生徒の人気ダントツ一位でしたから」
「まあ、うまいこと。いまでは動物フェチの変わったおばさんよ」
吾郷は首を振って否定した。
「先生は真栄山大にいらっしゃるとか」
「そう。『動物生態学研究所』というところで毎日動物とおしゃべりしてるわ。この山北へも時々鳥類の観察で来るのよ」
「そうなんですか」
さっきのヒナが森に消えて、襲った二羽が樹上に飛び立つ姿に立花友香は、脅かしてごめんね、と叫んだ。