始まり
「予期しない非常事態に陥ること。どう考えてもそのような事態は起きないだろうという気持ち」
この意味を持つ言葉を、人は日常生活で普通に口にする。ふと思えば奇妙だ。普通を意味しない言葉を普通に話す。もしかしたら自分にだけは降りかからないと信じているのだろうか……まさか。
兆し
安住の地
住めば都。加奈子は深まる秋の、東京では決してお目にかかれない澄み切った空を見あげて、このありふれた諺の意味を実感していた。東京で生まれ育った彼女に地方生活は無縁だった。夫の貴之から彼の故郷への移住話を持ち出されたとき、虚を突かれたような感覚だった。それほど微塵も意識したことはなかったのだ。
やがて漠然とした不安が頭を擡げる。しかし、冷静に考えれば拒否する絶対的な理由は見当たらない。独り身となった母の千鶴は姉夫婦と同居しているし、二人の子も幸い就学前だ。それに貴之の故郷に住む義理の両親との相性も悪くはない。不安の理由はただ地方暮らしの経験がない、というだけだった。
そうして月城に移住して三年が経つ。この人口十万ほどのありふれた地方都市での生活は、始まりこそ戸惑いもあったが想像よりは、もちろん東京とは比べようがないが、不便を感ずることは少なく、案外すんなりと順応できた。逆にコンパクトゆえに快適なことも少なからずある。
「おはようございます」
「あら、おはよう。送りね」
隣人の平原は仲のいい初老の夫婦で、転勤で暮らしたこの町を気に入ってリタイヤ後に移住した。妻の道代は気さくな人柄だ。
「二人ともすっかり馴染んできたようね」
「はい。子供はすぐ順応しますね。友達もできてとても楽しくやってます」
「そう。美南ちゃん、優ちゃん。この町は好き?」
「うん。大好き」
長女の美南が満面の笑みで答え、優はうなずいた。
「それはよかった」