加奈子がこの町で最も気に入っているのは、人づき合いの距離感だった。東京ほどよそよそしくなく、かといって田舎のように閉鎖的な密着感もない。この、ほどよい距離感が心地よかった。心配だった学校も、都会からの移住者や転勤族の子供が少なからずいるため、地元の子供集団の中で孤立することなく美南も優も楽しく通っている。

進学面ではもちろん東京に比べて選択肢は限られているが、月城と隣接している県庁所在地の()栄山(えやま)市には、地方の進学校として知られ、貴之の出身校でもある県立真栄山高校があるので、あとは子供の頑張り次第だ。

強いて難をあげれば、加奈子の研究を続ける場がないことだ。彼女は民俗学の研究者だ。いや、だった、というのが今の彼女の気持ちだろう。東京の大学で博士研究員をしていたが、二人の子供の妊娠出産はその任期更新を困難にした。ポスドクを辞めたのちも、恩師である高瀬川教授の計らいで育児の合間を見て研究室で研究を続けてきたが、貴之から移住話を切り出されたとき、彼の経済的支えがなければ成り立たない中途半端な研究生活に見切りをつける決心をした。

「じゃね、いってらっしゃい」

スクールバス乗り場で二人を見届けてから家に帰る。昼には比較的近所に住む貴之の両親が来て、昼食を共にする予定だ。平凡だけど平穏な幸せ。加奈子はいつの間にか、この町を安住の地と感じていた。加奈子の夫である()(ごう)貴之は市役所に勤務している。市役所での仕事は世間で思われているほど暇ではない。

実際、時期によってはかなり残業も多いが、民間時代に比べるとストレスはずっと少ない。日々の業務を粛々とこなす、それで十分だということは理解してきた。最近では、ふるさと納税のために市の魅力をアピールするといった企画力を求められる業務も増えてはいるが、それほど多くはない。前例に従う仕事が王道なのだ。

公務員はいざというときに役に立てばいい、と吾郷は割り切っていた。でもここに生まれて三十数年、この小さな地方都市で、いざということなど起こったためしはない。吾郷が帰郷を決意したのは仕事に将来が見いだせなくなったからだ。

東京の有名私大を卒業して大手銀行に就職したが、この十年あまり銀行を取り巻く環境は劇的に変わった。超低金利政策によって利ザヤで稼ぐことは難しくなり、単純に預金をかき集めて優良企業にどんと貸しだすというビジネスモデルは縮小を余儀なくされ、ネットバンキングの普及も相まって対面業務を行う支店は次々と閉鎖された。

主に中流以上を対象とした投資信託、外国債などの個人投資業務も手数料の安いネット金融と競合し、投資相談に頼らず自ら集めた情報、あるいはAI任せのアプリ投資でオンライン売買する顧客も増えている。加えて、既に決済業務ではかなり浸透しているが、近い将来フィンテックが伝統的銀行業務と競合してくる。暗号資産やデジタルマネーの普及で、銀行口座を介さない取引も常態化するだろう。

とにかくこれからの銀行は「人」を必要としなくなってゆく。そんな時、月城市の中途採用募集があり、応募して採用された。所属の「地域産業課」は役所の中では残業が多い部署だが、今日は定時に帰れる。自宅までは二十分。東京ではあり得ない通勤時間だ。――夕食にはまだ早い、ジムに寄って帰ろう。