私が子供の頃、集落の家はほとんどが大家族だった。一家が二人とか三人の家は思いあたらない。私の家もごたぶんにもれず七人家族で三食共にするのである。

私が小学二年の春、囲炉裏を囲んで夕食をとっていたとき、母がぐつぐつ煮えた囲炉裏の鍋から素麺を椀に取り、私に渡そうとしたのを私が取り損ねて胡坐をかいていた足の上に落としてしまった。座は大騒ぎである。沸騰した太目の素麺は足首にピッタリ付いて少し足を振ったぐらいでは取れない。右足くるぶし上三寸くらいから足の甲にかけて火傷をしてしまった。夕食が終わったあと母が裏白樫のある場所を家族に尋ねたが裏白樫そのものを知る者はいなかった。母が言うには樫の木で葉の裏が白っぽく見える種類があるのだという。

翌朝起きてみると何処から取って来たのか籠いっぱいの木の葉があり、竈に底の浅い鉄鍋で木の葉が焦げるまで焙り、粉になるまですり潰して水を入れ、火傷の箇所に塗り付けてそのまま学校に行けと言う。左足は靴、右足は千日草履と珍妙な恰好で何日通っただろう、ズボンの裾を少し捲り上げ足の甲から踝の上まで黒い物をべったり塗り、恥ずかしかったことだけは覚えている。

皮が剥けた箇所の新しい皮膚には火傷の痕は何処にもなかった。

中学になり分校から通って来る娘で、顎の下から左側首筋に火傷の痕が残る子がいて、どうすればあの箇所を火傷するのかと思いながらも自分の火傷のことも口にできなかった。

私が大工の弟子入りしたのは義理の兄である。当時娘が二人と弟子が三人つごう七人が家族のように暮らしていた。姉は七人の暮らしの一切を面倒看ていた。

姉が右足膝を怪我した。傷は小さいが大きく腫れ上がりお皿の裏に膿が溜り家事一切ができなくなってしまった。こうなると男どもは大変である。医者は、これ以上熱がつづき腫れが引かなければ膝を切断しなければいけなくなると言う。そんなとき田舎から電話がかってきて話の中で姉の状態を話すと母が電話に出て、生きた泥鰌どじょうを捌いて傷口を避けて泥鰌の皮の方を熱のある箇所に張り付けろと言う。

生きた泥鰌など近所で見たことがない。親方の友人が中央市場に出入りしていて、その人が毎日届けてくれることになり、母の言うようにすると数日で傷口から膿が噴き出すように出てなおってしまった。医者に泥鰌のことは話さなかったが喜んでくれたらしい。

泥鰌の話は昔の軍隊が、傷病兵が故郷に帰るとき持たせてくれた赤本と呼ばれる本にのっているとのちに知った。

私が追突された翌朝、母から電話があり、私に変わったことはないかと言う。どうしたことかと私が尋ねると、仏壇の中に安置している弘法大師像が北を向いている。何かの異変を知らせているのだろうがお前しか思い当たる者はいないと言う。

私は車で事故はあったけど、たいしたことはない。お大師さんが北を向いていたのは鼠でも入ったのだろうと言うと、鼠など入る隙はない。寝る前は、「今日も一日ありがとうございましたお休みなさいませ」朝は、「おはよぅございます」と言って仏壇を開ける毎日で、見間違いはないと言う。私には大事はないと言って話は終わった。体に異常を感じ出したのはずいぶんのちのことである。