『風姿花伝』を筆写してからしばらく経ったある日、弥三郎は裏庭でうずくまっているあやめを見かけ、驚いて声をかけた。

いつかの柿の木の下であった。

「どうした、あやめ」

振り向いたあやめの顔を見て、弥三郎はぎゅっと胸を締めつけられた。あやめは涙を流していた。彼女が泣いているところなど、弥三郎は見たこともなかったし、想像もしたことがなかった。

「どうしたのだ、何かあったのか」

あやめは小袖の端をぐっと目に押し当てて涙を拭うと、足元に目を落として身を固くしていたが、低い声で吐き出すように言った。

「三郎兄様が、私の持っていた花伝書を見て、取り上げた」

弥三郎はぎくりとした。あやめが『風姿花伝』を持っていたこと、三郎がそれを許さなかったこと、いずれも弥三郎が口を出すにはあまりに重い事柄だった。

「私が頼んで、七郎兄様に写してもらったのに、三郎兄様は大夫になる者でなくては一見もすべからずと言って、それで、火にくべられた」

弥三郎はそのときの自分の感情をうまく言い表すことができない。怒りとも、同情とも、何とも言いようのない熱い思いに胸を焼かれるような気持ちになって、衝き動かされるままに言葉を発していた。

「わしが持っている、わしが、花伝書をもう一度書き写してやる」

弥三郎は自分の言葉に驚きつつ、自分があやめの肩に手をかけていることに気づいて、途端に動揺した。振り返ったあやめが目を丸くしているのを見て、さらにうろたえる。

勢いよく言葉をかけた割に、すぐ固まってしまい、真っ赤になっている弥三郎をびっくりして眺めていたあやめは、とうとう吹き出してしまった。

「な、なんで」

慰めようとしている自分をなぜ笑うのかと、それすら言葉にできない。あやめは申し訳なさそうに頭を下げ、それでも笑顔を消そうとはせず、こっそりささやくように言った。

「弥三郎は、やさしいね」

ますます体を固くして、何も言えなくなる弥三郎であった。