唐津街道散策・唐津城で花見の宴
地域の歴史や文化を学んだり、会員の親睦を図る集まりとして、発足・存続している団体で「糸島ば語る会」と言うのがある。
糸島市や福岡市在住の人達で、構成されており比較的年配の人が多い。その会に私と妻も、まだ、糸島に住んで二~三年(平成十一年)の頃、ある切っ掛けで入会する事となった。
人の出会いというものは不思議な、そして面白いもので、ある日妻と、郊外を散策中に一軒の茶店に寄り、休憩中に同じテーブルに向き合った、一見の女性との世間話が、その切っ掛けになったのである。
その女性とはその後も、長く付き合う事となる。この語る会の催しの一つに、唐津街道散策と言うのがある。これは、糸島から佐賀県唐津迄の街道を歩き、古きを訪ね新しきを知るものである。
今回はその一コマで、最終地点の唐津迄の、一日の出来事であった。恒例の唐津街道散策も、いよいよ今回で終りである。春先の街道筋を探訪しながら、歩くこの催しも、なかなか良い勉強になった。
今年はJR筑肥線「虹(にじ)ノ松原」駅から出発し愈々(いよいよ)終着地点に迫る。此処までは、各人が電車で到着、会員点呼の後、二班に分かれて、松原を抜けて、街道散策の終着とした唐津城に向かった。
参加者が多かったので、長老渡邊さんの説明を聞く班と、残りは吉丸会長の解説に従う班とに分かれて松原の中を歩いた。松原の遥か先に、海辺に聳(そび)え立(た)つ唐津城が見える。
渡邊さんは地元の浜崎という所の出身で、放送局に長年記者として、全国を股に掛けて、勤務されていた経歴の持ち主。卓越した識見と豊富な経験で、何時も興味深い話をしてくれる。電車の走る音を遠く聞きながら、耳を傾けて歩く、含蓄のある話が多かった。
さて、子供の頃に帰ったように、みんな明るい顔で松原の中を、キノコを探しながら歩いた。此処は昔、直径二センチ程の"松露"が沢山採れたところ、と聞いた事がある。
しかし、流石に皆さん、どれがそうなのか判らない。それでも、遊び心を発揮して、
「これだろう、いやこれよ、こっち!」
と言って、夫々(それぞれ)それらしき物を摑んでは、手にして歩いた。遠足気分で結構楽しかった。延々と続く、凡(およ)そ五キロはあろうと思われるこの松原、嘗ては太閤秀吉も朝鮮出兵の基地とした、名護屋への往復に此処を往来したもの。
しかし、その当時はまだ、こんなに見事な美しい松原ではなかっただろう。海岸に沿って虹の弧の様に、縁どっている松原が出来たのは、ずっと後のこと。それでこの名前がつけられたのも、太閤以後の事と思われる。
松原の中を歩いて行ったのは好いが、今日の一行は年配者が多く、道すがら、旧家などを見物しながらであったから、予定時間をオーバー、唐津城に着いたのは丁度昼頃となった。
城内は混雑が予想されたが、今日は土曜日ということも幸いしたのか、天守閣前の広場で無事祝宴を開く事が出来た。歩いた後の爽快感も加わり、唐津湾に浮かぶ、高島や鳥島を眺望しながら、桜の下で酌み交わす酒は、又ひとしおである。
総勢三十数名であったから、とても桜の下では無理ではないか、と懸念された。しかし、担当幹事の川上さん達の、場所取り班の奮闘のお蔭で、充分席も確保された。これは感謝感謝である。
唐津城は文禄四年(一五九五年)頃、時の権力者であった、秀吉から
「廣高、そのほう、名護屋の後詰としてここに残り、陣屋を築け!」
「ははあ! 有難く、承知仕りました」
と拝命した、秀吉側近の寺沢志摩守廣高は、唐津に封じられ、早速仮屋程度の城を造った。