以後、関が原の役が終わってから、自ら陣頭指揮を執り、本格的な築城を行ったと記されている。関が原の役では、変わり身よく徳川方についたのであろう。時の流れをよく、見極めたものと思われる。
しかも、名護屋城の解体資材を使ったとあるから、結構その時代から経済的な感覚があったらしい。そうすると付随して虹の松原も、彼が本格的に延長するべく、手がけたのだろう。
「その方ども、苗木を手に持って、出発せよ!」
参勤交代の時に、いつも家来に幼木を持たせ、松原に通りかかると、
「林の中に一本ずつ植えてまいれ!」
と、沿道に植樹させて通った、と。これは私の想像であるが。こんな具合であったろう。唐津城は、北は玄海灘に面し、東は松浦川、西と南は堀で囲まれ、堅固な城であったと。
我々の宴も中締めのあと、私は石段をたどって下りてみた。崖下は直ぐ海である。なるほど、巧みに造られた水城と言われる根拠が、納得出来た。敵が攻めて来ても、これでは、容易に落とせないだろう。
宴のあと、こんな思いを巡らせながらの一人歩きも、結構楽しかった。帰路、唐津駅まで夫々分かれて歩行、途中の、大手口で松原に生える松露をかたどった、老舗の銘菓「松露饅頭」、の本店に寄った。入り口を入るなり、厚かましくも、いきなり誰かが切り出した。
「お茶を戴けますか?」
買うかどうか、わからない、単なる冷やかしかも知れない我々が、どやどやと入り込んで来たのである。それでも迷惑顔しないで、丁寧に挨拶を返し、嫌味も見せず、お茶をご馳走してくれた。
喫茶店でもないのに、田舎の人はやはり親切である。さすが名店でもある。そうすると「語る会」の会員も、やはりただでは去りがたい。結局はみんな次々に手土産を下げて店を出た。店員も愛想よく送り出してくれた事は言うまでもない。
我々の唐津街道散策も、ついに終点に来た。福岡から佐賀に至るこの街道を歩いて来て、この辺はなかなか興味深い地域である、と言う事を改めて感じた。
地形的に、海を離れて少しでも内陸部に入ると、こうも土地や事物に対する、信仰や文化が異なって来るものか、と思われる。同じ県内でも唐津地区は、やはり五島列島や壱岐など、そして遠く大陸への出入り口で、古代から海に雄飛してきた躍動的な歴史の刻みがあるようだ。
松浦党と言われる、海のつわもの共が、活躍したのも頷(うなず)けるものがある。内陸部の方に入ると、全く異なった文化を継承して来ている。
私達が、数年掛かって辿(たど)って来た、街道の散策も、まだ行きたい所が沢山残っている。近い内に機会を見つけて、それらを自分で探索してみたい。特に九州人でありながら、九州を知らない私にとって。
しかし、語る会としては、次は何処を散策するのか。
西の方へ下って行くのも面白いか。ついでに長崎まで行きますか! 会長さん?
平成十八年五月