大地が揺れた・福岡沖地震
春もやっと巡ってきたな、と感じる様になった彼岸の中日。
博多祇園町にある萬行寺(まんぎょうじ)に、妻と墓参りをし、その足で、赤坂の兄の家に向かった。恒例の仏前へのお参りである。私ども夫婦が福岡に帰って来て、もう十年くらいになる頃だった。
盆と彼岸に、何時もお参りするメンバーが集まり、旧交を温めるのが常(つね)であったが、この日も変わりない雰囲気であった。灯明を上げ、みんなお参りして、席に着こうとした時、突然地鳴りと共に、グラグラッと建物が揺らいだ。
最初は大した事もあるまい、と思っていたが、次にはタテ揺れとヨコ揺れが大きく、かなりの振動を感じた。
「これは大きい!」
と、直ぐに私は腰を落とした。妻はいち早く、小さなテーブルの下に、頭をもぐり込ませている。長年、関東に住んでいたので、地震に慣れた仕草(しぐさ)が出て来たのか。
他の人々も、多少の緊張感はあったが、そこは、歳の功か? 唯、じっとしていた。
その内に揺れも収まった。まあ、なんと言っても、初めての遭遇である、驚くのも無理はない。幸いにも、停電にはならなかったので、テレビは直ぐに視られたが、震度五強程度の地震とアナウンサーは報じていた。
地震と言う天災は予告なしに、襲ってくるので、驚きや被害は大きい。福岡地区にとっては、初めての体験で、正に驚天動地の出来事であった。
兄の家は、今は鉄筋造りであったから、殆(ほとん)ど被害はなかった。しかも、此処は兄が後を継いで住まいとしているが、嘗(かつ)ては、私と弟を含めた三人兄弟が、九年程を過ごした住処(すみか)であった。
それまでは、福岡の中心部に近い所で、生まれ育ったが、成長と共に転居して来た所である。その後、私は関東に、そして弟は関西に、それぞれ就職して旅立ったのである。
もともと先祖は、博多の商人で、屋号も「油(あぶら)屋」と称し、結構繁盛していたらしい。戦後、父の代に新しく事業を起こし、最終的に此処赤坂に居を移したのである。
当時は郊外で、地名も地蔵谷(じぞうだに)と称していたが、町の発展と共に、福岡の一部になってしまい、赤坂という今風の地名になってしまった。
従って、此処に仏壇も置いてあり、今は、我が一族の所謂(いわゆる)本家となるのである。
話をもとに戻すが、私は、兄の家から直ぐ勤務先に足を向けて歩いた。こういう時は乗り物は殆ど用をなさない。タクシーは走っているが、手を上げても見向きもしない。歩くに限る。
途中、市の中心部・天神に出ると、窓ガラスが壊れ、歩道に相当落ちていたビルがあったが、全く無傷とも見えるビルもあった。
それは兎も角、心配した勤務先も事務所内は机や椅子、その他事務具が全て散乱していた。しかし、思ったより被害は大した事はない。今度は我が家が心配だ。兎も角天神まで戻って地下鉄に乗ろう。