加賀藩はその藩境の殆どが険しい山岳地帯である。江戸時代の初期の頃は、その領地を表す絵地図の南東から東にかけては、藩境の殆どが白紙のままであったという(現在の北アルプス三俣蓮華岳、鷲羽岳、水晶岳辺りから、後立山連峰にかけての辺りのことである)。有名な佐々成政の〈さらさら越え〉の例もあり、加賀藩はその藩境の山岳地帯の重要性を早くから認識し、人を選んでその方面の地を探索させ、後には警備もさせた。それが『奥山廻り』である。
黒部奥山は、信仰登山の立山の登拝道以外は一般人の立ち入りが禁じられており、奥山廻りでは木々の盗伐の取り締まりや、藩境付近の情報収集なども行われた。それに付随して、かなりな数の杣人(山の民)を装った草の者も暗躍していたと言われている。中には、藩主の密命を帯びて周辺諸国を飛び回っている者もおり、藩では密かに『聞者役』などと呼ばれていたという。
加賀藩が行っていたその奥山廻りに、富山藩の藩医の息子であった聡順も、一度若い頃に同行したことがある。加賀藩から要請を受け、その辺りの薬草や植物の効能などに詳しい人物を誰か同行させよと言われ、父聡ノ進は足が悪かったため、その子の聡順に白羽の矢が立ったものだ。それだけ小幡家の本草学に対する博識は、その頃からこの地一帯には、つとに有名であった。
大役を仰せつかって緊張しきっていた聡順を、父聡ノ進はこう言って送り出したものだ。
「心配するな聡順、どうせ奥山ではお前の知識など大して役にも立たぬ。それでよいのだ。我が藩の殿もそのようなことは望んでおらぬ。そもそも大切な秘薬のことなど、他の藩の役人にべらべらしゃべられては、秘薬の意味がなくなるではないか。それより、山の民には我々には計り知れないほど、奥山の草木の知識に長けている者がいる。もし道中そのような者に出会ったら、できるだけその知識を吸収するよう努力しろ。それが今度の旅の真の目的ぞ」