地図
春の日に
遠くに見える険しい山々はまだ殆ど真っ白だが、肌に感じる風はもう春の暖かさと湿り気をたっぷり含んでいる。
まばゆい光に細めた目を身近なものに移しながら、小幡聡順は目に入ったものにふと気を取られて、手を止めた。
これは珍しいことである。聡順は薬草の調合を始めると、滅多に手を止めることがない。勿論込み入った薬の調合をする時は、何かに気を取られること自体ないが、薬研に入れた薬草をすりつぶしているだけの時でも、体が覚えきっている動きを止めることは滅多にしない。
それを、傍で内弟子などにお茶を配っていた妻の深雪は、おやっと思って見つめた。夫が手を止めて見入っている先を目で追い、その注目しているものを見極めると、思わず深雪の顔に微笑みが浮かんだ。
聡順が見つめていたのは、息子の聡太朗が仕方なく剣の相手をしてやっている末娘の百合であった。
広い屋敷の庭のその一角だけが大層賑やかなのだから、当たり前といっては当たり前なのだが、普段は富山藩の藩医として忙しい日々を過ごしている聡順が、ふと手を止めて見つめていることに、深雪はやはりという思いを抱いた。
お茶を手渡しに近付いて来た妻に、聡順がやれやれといった調子でつぶやいた。
「なんとあの子はお転婆だなあ」
すぐに、
「ほんに困ったことで……」
なぞという当たり前な返事があると思っていた聡順は、目を細めて百合の素早い動きを追っている深雪の、何か遠くに思いを馳せているような様子に、思わず(ほう……)という目で妻を見つめなおした。
「あの、ちょっと思っておりましたことを申してもよろしゅうございますか」
聡順は戸惑いながら、
「構わぬ。言うてみよ」
「あの子は今、女子として厳しくしつけましても、決して幸せな人生を歩めないような気がして仕方がありません。何か違う育て方が出来ないものでしょうか」