【前回の記事を読む】血尿まで出るほど生活は苦しいのに、失業保険を自ら断った男…だがすぐに後悔して知人を訪ねると「月10万円」のある仕事を持ちかけられ…
4.そして進学教室の講師になった。
そう、私は子供の頃、家庭的なモラハラを受け、強く言われると断れないから、「教えてくれるなら、浦安、或いはM市まで行く」という二人の女子中学生に言われるがままに引き受けてしまったにすぎないのだが、ともかく人からの「頼まれごと」をそのまま受け、教え方も彼らと彼らの親の要望のまま仕事をしていたのだから、自分の人生はパッとしなかったとはいえ、僅かでも、その時は人のためになることをしていたのだろうか。
しかし本当に「僅か」であったことも間違いなく、初めて三年ほどで四十人近くなったのだが、そうなると何か情熱を失い、また徐々に二十人近くまで下がり、そうするとまた気合を入れ直して、などという情けないことを繰り返していたにすぎなかった。そして、それを三スパンくらいしたところで、既に五十を過ぎていた。
その頃、父が肺癌で入院し、手術をして、それは成功したのだが、その間行ったり来たりしているうちに、生徒はまた減った。父が自宅に戻れたので、また気合を入れ直して塾をやろうと思ったが、一年経たぬうちに再発した。二回目は手術はできず、放射線療法をしていたが、しばらくして医者から呼ばれ、もう緩和病棟に移すしかないと告げられた。
父が危篤の電話があった十月のある日、大家の内容証明が届く。何だと思ったら、「老朽化のため取り壊したいので、来年の四月までに出て行って欲しい」とのこと。そんな理由で出て行く必要はないことは分かっていたが、生まれて初めて貰った内容証明、何か脅されているようで、実に嫌な気分になった。
父の葬儀一切済んだ後、母に請われ、M市に戻る気になっていたので、一旦は内容証明の通告通り、出て行こうか、と思った。それで生徒に事情を説明し、新入会の募集も止めて、M市の実家の空いている部屋で、塾を始めることを決めた。ところが、それまで碌に顔を見せなかった兄が戻って来ると、事情が面倒くさくなって、すぐにはM市で塾は出来なくなった。
その辺の家庭的な事情もあって、私は26年ぶりに「典型的な鬱病」と診断され、通院することになる。しかし薬と絶食療法により、半年後どうにか回復し、また生徒集めをボチボチやり直し、時たまかかってくる立ち退き要請の不動産屋からの電話をのらりくらりかわしながら、千葉でしぶとく塾を続けるしかなかったのだった。
そして六年後、やっと問題が解決し、M市に漸く戻ることができた。父が「六十になると気力がなくなる」とよく言っていたので、なんとか間に合った。2014年、M市に戻った時、私は58歳になっていた。