「祐一、あなたも行くのよ」

どんなに背中を押されても気がすすまない。それ以前にこんな古風なしきたりを望むとも思えなかったし、なんといってもあの敵意に立ち向かう余力が残っていなかった。でも、母さんを一人で行かせるほど非情にもなれず、ここは自分を奮い立たせることにした。

隣人宅はドアベルがなかった。正確には不自然に壊れている。それならと思い、扉を節度をもって叩いた。しかし、幾ら待っても返事がなかった。

「留守なんだよ」

これで引き返す言い訳ができたと、おれは内心安堵していた。でも、念には念を入れ、というのか、母さんは密やかな声がけを加えた。

「こんにちは。隣の葉山と申します。本日はご挨拶に参りました」

すると、魔獣のような地響きと共に、扉が勢い良く開いた。その怒涛の風圧におれたちも仰け反った。

「誰」

そこに立ちはだかっていたのは、とぐろを巻いた邪気を全身から噴射した女だった。水浴びをしたのだろう、縮れた髪は湿り、堂々と晒したシュミーズ姿もそれ相当の破壊力があった。

当然、あの子じゃない。おれの直感にすぎないけれど、このおばさん――あの子の母親だろう――は、人生の中で関わってはいけない人物だと感じた。

一方の母さんは芯の強さが露呈するほどの真顔だった。そのうえ、「葉山と申します。どうぞよろしくお願いします」と頭を垂れ、そっと手土産を差し出した。

おばさんの鮫のような目は、母さんを捉えたまま微動だにしなかった。そうかと思えば「気が利かないね!」と、いきなり咆哮して菓子箱を乱暴に毟り取った。

「何だ、これ。こんな物は何の役にも立たないね。ごみだ、ごみ!」

煙草をこれ見よがしに咥え、包装紙を乱暴に引きちぎった。外蓋を邪険に放り投げる姿はさながら闇に取り憑かれた閻魔(えんま)。

「おばさん!」

おれも黙ってはいなかった。でも、母さんは「やめなさい」と言って横から押さえた。どうしてだろう、こんなことをされても平気なのかと憤慨したが、それは違った。

おれだけに向けた一瞥には、小さくとも力強い炎が宿っていたのだ。

「お嬢さんに、と思いまして」

母さんは顔を上げた。決して女の所業を受け流しているわけではなかったのだ。むしろ、静かに挑んでいる。

「娘ぇ? ふん。こそこそと嗅ぎまわりやがって」

それに応えたおばさんは箱をひっくり返した。ボトボトと雪玉のように散乱する焼き菓子をご丁寧に蹴散らす。母さんはそれを黙々と拾い集め、指先で挨を払った。

「もういいよ。帰ろう」

これ以上は見ていられないし、こんな姿も見たくない。

試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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