三 歯車
「こんにちは。あの、昨日、隣に越してきた……」
「聞くつもりはないから」
ほら、きた。でも、最初から期待を持たせない。これはあたしなりの親切だ。
「え、でも、あの……」
まだ食い下がるつもりだろうか。部屋の鍵という物は、こんな時に限って紛失するようにできている。
「だから、知る気もなければ教える気もない」
あたしが拒否しているのがどうして分からないのだろう。まるで真正面から水鉄砲を食らったかのような顔。それが余計に苛ついた。あたしにもあたしなりの都合があるのだ。
やっと鍵を掴み、せっかちに扉を開けた。扉の隙間に片足を突っ込み、背中から要領良く滑り込む。これが両手にバケツを持っていても、ものともしないコツだ。
だけど、扉がいきなり羽根のように軽くなった。男に視線をやると、扉を澄まし顔で押さえていた。どうぞご自由にお入りください、と言わんばかりに。
ああ、まさに親切の押し売り。感謝しないはずはないと思い込み、紳士ぶった態度を平然と見せつける。
「どういうつもり!」
あたしは烈火のごとく叫んでいた。
「こんなこと、何年も、毎日繰り返してきたの!」
そう、高熱の日も、重い生理の日も、どんな時も誰の手も借りずにやってきた。それを、今たまたま居合わせただけで親切心を見せた気になっている、その性根が気に入らなかった。
「自分でできる。放っておいて」
隣人は完全に言葉を失っていた。構わない。しげしげと頬の痣まで見ているようなデリカシーのない男だ。このうえ、同情をするつもりなのだろうか。
あたしは玄関に入ると、後ろ手に扉を閉めた。
微かな隙間から、寂しげな茶褐色の瞳が覗いていたとも知らずに。
四 接点
今までのおれは、やる気なんて気持ち一つだと、歯を見せて笑う清廉潔白な若者だったのだと思う。実際にそれでなんとかなったし、これからも不動なのだと思い込んでいた。
でも、十七年目にして舐めた自己陶酔なのだと気づいた。この鼻腔に貼りついた粘性の臭気。それはおれのやる気を簡単に削いだし、そのうえ、初対面の隣人に謂れのない敵意を向けられたことで、微々たる前向きとやらも尽き果てた。
そんな夕暮れ時。隣人に挨拶まわりをするのだと意気込んでいる母さん。あの子のことを話したからか、一目会いたいと手土産を準備していた。
それは本島の焼き菓子だった。あの騒動の最中によく気が回ったものだと感心したが、母さんなりの気構えがあったのだろう。これが、新しい世界で生きていくという覚悟の証だと感じた。