【前回の記事を読む】日本にあった"もう一つの王朝"…その手がかりが各地の古墳から出土している。だが彼らの歴史は、ある時忽然と消え…

歴史調査報告02 石塚山古墳と失われた王朝

4 宇原神社と豊玉姫との関係

京築地域では豊玉姫をお祀りする神社が多く存在する。

ここ苅田町に鎮座する宇原神社でも豊玉姫は祭神として祀られている。この女神は、神武天皇の祖母で彦波瀲武鵜茅葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の母である。そして綿津見神の娘である。神を擬人化し尚且つ体系化したのは、中央集権が完了した奈良朝以降であるとわたしは見ている。

そもそも神は無人格であって、極めて抽象化された恐怖心であったと考えられる。古墳の壁画や埴輪などを見た時、神を模したものを見たことがないことも、この考えに正当性を与えてくれている。かつての恐怖心が人格を持つようになるのだが、この人格は日本では王朝が入れ替わる度に新たな人格が付与されて名称も改まる。

図8 石塚山古墳と物部氏の遺跡

さて、この神社の祭神は先程ふれた彦波瀲武鵜茅葺不合尊を正殿に、左殿には父の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、右殿には豊玉姫の神霊が安置されている。

神社の伝承でも、ここには帝都があったことになっている。狭間畏三が描いた「帝都」とは同じものだろう。非常に魅力的な響きだ。多くの人々がここに集まり、王は神に祈っていたであろう。

折々述べたいが、邪馬壹国が瓦解した後、倭国王は日田に都を築いた。同時に各地の王も物部氏一族に代わっていった。京都平野では、ビワノクマ遺跡から長峡川水系でも大きな変化が見られるのだ。わたしは子孫がいなくなったタイミングは二度あったと考えている。

ひとつは欽明天皇の即位前、二朝並立時にこの辺は安閑天皇の屯倉となったと報告した。数年後に欽明朝が実権を握ると、ここにいた反欽明朝の王族たちは排除された。これが最も有力な解答だとわたしは考えている。

ただもうひとつのタイミングがある。白村江の戦いの後に唐・新羅占領軍が倭国に進出してきた時だ。この時には多くの将兵は出征してしまっていたが、残っていた王族たちは畿内へと追放された。どちらにしても正当な管理者が不在となり、壮麗を誇った巨大古墳は草木に覆われ山谷に帰っていったと結論付けられる。