【前回の記事を読む】日本書紀と三国史記の記述差から読み解く、継体天皇暗殺説と倭国・伽耶・新羅をめぐる6世紀東アジア政変の真相とは

歴史調査報告01 宇佐風土記の丘にて想う

4 聖地御許山に交錯する神々

菟狭津彦にとって、御許山は禁足の聖地だった。元の名を馬城峯という。

この禁足地には大宮司のみがその交代の折にのみ入ることが許され、三体の磐座に宿る神に就任を報告したという。

物部氏の伝承では天活玉命の子、天三降命が天降ったとされており、宇佐八幡宮御託宣においては宗像三女神が天降ったとされている。

日本のなかでも、これだけ神像が交錯する場所も珍しいのではないか。これも継体朝(安閑・宣化朝)と欽明朝との争いの結果だとすれば、理解しやすい。

わたしは天三降命が祀られる以前は、ここには瀬織津姫(祓戸神)が祀られていたと考えている。それは物部氏が倭国王となる以前の神がようやく人格を与えられた時の神名だ。

ここにはその根拠を示せるものはないが、後世の放生会が和間浜で行われたことで、わたしは本来の神を知ることができたと考えている。

当時の天然痘の大流行という危機的状況下では、やはり本来の神の力、祓戸神である瀬織津姫の力が必要であったことが分かる。

この辺の事情は古事記や日本書紀という、歴史をある一方からの見方が正しいとして強制している記録を、それが常識だと考える人においては混乱するのではないだろうか。

この二千年間、九州でも周防灘に面した豊前国地域は、九州へ最初に上陸する場所であり、さまざまな権力が行き交った複雑な場所でもある。

この地域ではいつものことだが、古い文化は駆逐されることなく、幾層にも積み重なっていった。神々に対しても、それは同じことが言える。

御許山が複雑なのは、瀬織津姫から天三降命、宗像の三女神と積み重なってきた結果なのだ。そしてそれらを総称して比売神なのだ。

いつの時代の菟狭津彦もそれを拒むことなく、受け入れなければならなかった。日本の神というのは、まさにそういうものなのかもしれない。

御許山はいつ見ても、近寄りがたく感じられる。