【前回の記事を読む】地球寒冷化で文明崩壊寸前…9割死亡の中国大陸から逃れた人々が日本にもたらした“恐るべき病”とは
歴史調査報告書01 宇佐風土記の丘にて想う
2 筑紫君磐井の乱と鶴見古墳との関係
筑紫君磐井が、新羅と結託して倭国の軍勢の足止めを行ったことで、物部大連麁鹿火(もののべのあらかい)に鎮圧された事件が、継体天皇治世22年(529年)十一月に発生したと日本書紀に記されている。
記紀のどちらも磐井は斬られて死ぬが、筑後国風土記では豊前国上膳(かみつみけ)に逃げて見失ったとある。
彼の子の葛子は糟屋屯倉(みやけ)を献上して罪を逃れることができた。この事件の後いよいよ倭国軍は大軍を朝鮮半島に送る。その後丸二年倭国軍は朝鮮半島で戦うが、継体25年(532年)二月に継体天皇が突然崩御する。
ただこの遠征についてわたしは疑問を持っている。三国史記をどれだけ信じるかという話もあるが、新羅国の歴史を記した三国史記新羅本記法興王の該当する年代には、倭国軍が海を渡ったという記載がないのだ。
また百済本記聖王の年代にも、この出来事についての記載はない。そもそも倭国にとって伽耶は非常に重要な拠点であり、倭国軍も常駐していた可能性は高いのだが、実は磐井(実は継体天皇)を討伐することが主目的であったのかもしれないと、わたしは見ている。
現存する資料はないが、もしかするとこの「磐井の乱」という記紀におけるイベントは、伽耶の権益をめぐって継体天皇とその皇太子を暗殺する事件がモデルになったのかもしれない。
わたし以外にも、継体天皇の暗殺であった可能性が高いと考えている者も少なくない。継体天皇が八女の地で忙殺され、その後を継いだのが欽明天皇であった。
倭国との玄関口である金官伽耶が532年に新羅に滅ぼされていることも、この件に深く関与しているのではないかと考えられる。
果たして筑紫君磐井の乱は真実なのか。倭国軍は大軍を朝鮮半島に送ったのか。この二つが史実ではないとすると、この事件は金官伽耶を失った責任を継体天皇に取らせるという名目の下、欽明天皇のクーデターを暗示しているのではないのか。
状況証拠しかないのだが、今回の調査ではその可能性が高まったことを記しておく。継体天皇亡き後数年間、欽明朝と継体朝(安閑・宣化朝)との戦いが繰り広げられたが、欽明天皇の勝利で収束する。
この戦いは屯倉の争奪からも垣間見ることができるが、当初有利に戦っていた継体朝(安閑・宣化朝)側は、なぜかあえない最後を迎えるのだった。