3 豊前国の倉屯(みやけ)

日本書紀上では継体天皇崩御後に安閑天皇の二年間でのことだった。これは全国的にも行われたのだが、豊前国にも屯倉があちらこちらに設置された。ただこの時期に豊前国だけで五ヶ所は全国的にも非常に多い決定であり、欽明朝との激しい戦いが繰り広げられたことを証明している。

屯倉というのは、当時の政権の直轄地であり、直接支配が行われた地域を意味する。全国で共通な法体系があったことは確認できてはいない。

この豊前国の屯倉に限れば、旧政権側の強制的な占領地という見方もできる。日本書紀上は形式的に安閑天皇が設置したことにしているが、当然欽明天皇側も同じように占領していったと見るべきだ。全国で内乱が続いていた可能性が高い。

図5 豊前国屯倉と秦王国

豊前では湊崎・大貫、肝等(かと)、我鹿、桑原に屯倉が設置された。郡で考えれば、企救郡、京都郡、田川郡がその対象となっているが、築城郡以南はその記載がない。築城郡や上毛郡、下毛郡は秦王国があり、両朝政権範囲の対象とはされなかったと見るべきだろう。

宇佐郡も戦乱に巻き込まれれば、占領地として屯倉が設置されていただろうが、ここもまた未設置となっている。 菟狭津彦がこの時期をもって歴史上から一旦姿を消す。これは菟狭津彦が継体朝(安閑・宣化朝)側に付いたために、欽明朝になって粛清された可能性が高いと考えられる。

話は少し飛ぶが、欽明天皇17年十月、紀国海部屯倉を設置したとある。大分市内の萬弘寺には、欽明天皇皇子である用明天皇が建てたという伝承が残っている。紀国は豊国の間違いではないかと考えている。国東半島はかつて鬼の住む地であったことから鬼国とされていた。

その鬼国から紀国とした可能性が高いと思われる。

 

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