歴史調査報告書03 不弥国の港(草野津(くさのつ))
邪馬壹国への経路について鍵となるのが港のあった不弥国の存在だ。福岡県行橋市には弥生時代最大級の草野津があり、大陸と倭国内を結ぶ重要拠点だった。だからこそここには御所ケ谷神籠石や太宰府を凌ぐ軍都福原長者原遺跡が存在する。
わたしの住む行橋市に草野(くさの)という地名がある。弥生時代までは行橋市街地に当たる場所は大きな入江であったことが分かっている。当時は草野津と書いて「かやのつ」と読んだ。
この意味はふたつある。ひとつは湿地帯で茅が多いところから採られた呼称、そしてもうひとつは朝鮮半島の伽耶へ向かう湊としての呼称だ。伽耶滅亡後は多くの秦氏がこの港の近隣に住み着く結果となり、そのような歴史的事実がこの呼称の元となったのだろう。
2007年頃、現在の延永小学校の北側からは、広大で多くの役割を包含した港の遺構「延永ヤヨミ園遺跡」が発見されている。この遺跡のなかには、船の残骸はもちろんのこと、港を管理した官衙跡や木樋(もくひ)、墨書された陶片なども出土している。
今回の歴史調査は、この草野津の謎に迫っていきたい。
魏志倭人伝には、「臨津捜露伝送文書賜遣之物又女王不得差錯」という一文がある。現代文に直訳するなら、「魏皇帝からの国書や下賜された物品を港(津)において検品する。女王は間違いを許さない」というところだろう。
この一文からいろいろと分かる。
ひとつは荷物は港から船で邪馬壹国に運ばれるということだ。魏志倭人伝の経路を見ていくと、九州から津があるのは、末盧国、不弥国、投馬国と邪馬壹国の途中だ。一大卒は伊都国に常駐し、女王の荷物を送るときには港へ出向き、そこで検品する。
この港は不弥国にあり、不弥国の港も捜露伝送が可能な設備が存在していた。発見された延永ヤヨミ園遺跡は、この港の機能を十分に果たすことができるだろう。
では、なぜ不弥国が行橋の地だったと言えるのか。古代から国衙を有し、九州北東部最大の港湾施設だったというのでも十分なのだが、不弥国の地名もこの行橋の地と関連が深い。
草野津から上流に数キロメートル上った長峡川中流域には前田遺跡、さらにその上流部に下稗田遺跡と大集落の弥生遺跡が連なっていた。この二ヶ所は低層の丘になっている。
現在はイトーピア(前田団地)、宮の杜という大規模な住宅地となっているが、どちらも弥生時代の遺跡の上に存在している。そしてこの辺りは行橋市政に編入される前は、稗田村という地名だった。
この稗「ヒエ」、中国上古には「ピヤ」と呼んでいたようで、同じく不彌「ピヤ」と発音が重なるのだ。また下稗田遺跡では日本最古の硯も発見されている。大陸の人間が古くから住んでいたことも予想され、たぶんそのような知識人が草野津で女王への検品リストを作成していたと考えられる。
また日本書紀の景行記には、景行天皇が周防佐波から船でこの地に来て、長峡県(ながおのあがた)に京(みやこ)を置いたという話がある。景行記が史実かどうかは別にしても、草野津という港湾機能があったことがここにも示されている。
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