【前回の記事を読む】私は父にも父方の祖父にも会ったことがない――奈良の住職だった祖父は35歳で妻子を残し渡米、その理由とは

第二章 会ったことのなかった人たちの存在感

父・大橋慶夫(よしお) George(1912〜1942)のこと

 

息子は父親を、娘は母親を、いい意味でもあまりよくない意味でも、自分の将来を考えるときの基準にしていることが多い。

私は父のことを知らない。私が1歳の時、父はビルマ(現在はミャンマー)で戦死した。父が出征してから、私は母の実家で育った。父方の家族はみなロサンゼルスにいたので、私は成人するまで会ったことがなかった。

父はアメリカで育ち、大学を出てからその後日本に来て、母と結婚して私が生まれた。私の周りには、私の父が米国にいた頃のことを知っている人はほとんどいなかった。

母から聞くだけで、あまり父のことを知らないだけに、むしろ自分も父と同じような生き方をしたいという思いは強く、少年時代は、よしいつか米国に渡って父と同じ大学に行きたいと思っていた。

私の父は、父親(私の祖父)の渡米に遅れること5年、母親と一緒に渡米して、親子3人合流。その時、父は5歳。その後、妹が2人生まれた。したがって、父は日系1世であるが、叔母ふたりは2世である。家族5人、大橋家一族はロサンゼルスで暮らす。

父は、1936年にロサンゼルスの郊外、パサデナ(Pasadena)というところにあるカリフォルニア工科大学を卒業している。California Institute of Technologyを省略して、通称Caltechと呼ばれている。そこの電気工学科を卒業した技術者であった。卒業記念アルバムには、トランプのブリッジの名手とある。

卒業後、両親や妹たちと別れて日本に単身帰国する。したがって、父は5歳から20代半ばまでアメリカにいたことになる。

日本に来てから、大日本帝国の国策会社・南洋興発に入社した。父と母は見合い結婚である。1940(昭和15)年、結婚。翌1941(昭和16)年に長男として、私・慶一(よしかず)が誕生する。その年の末、父出征。そして翌1942(昭和17)年、ビルマ(いまのミャンマー)で戦死。

父と母が人生を共にしたのは、この3年しかない。一緒に暮らしたのは実質2年。母親によると、日本語の会話は普通で、読み書きも一応はできたということだった。「でも、おかしいのよ。カタカナ語を和語で言おうとして、アコーディオンを手風琴(てふうきん)なんて呼んだりして」と笑っていた。