Caltechについては、大学についての章で述べるとして、ここでは南洋興発について調べてみた。満州を拠点とした南満州鉄道、満鉄に対して、サイパン島・テニアン島などの南洋諸島を舞台に発展した南洋興発は「海の満鉄」と呼ばれる、とインターネットに出ていた。「北の満鉄、南の南興」と言われたこともあるそうだ。満鉄は知っていたが、南興は知らなかった。
父が就職した頃、南洋興発はパイナップルの缶詰工場や澱粉精製の工場を建設していたそうだから、電気工学の知識も役に立っていたのかもしれない。南洋興発は、日本の委任統治の島だけでなく、オランダ領のニューギニア島・セレベス島・ティモール島などに進出したそうだ。太平洋戦争でさらに、海南島・グアム島・ジャワ島に関与する。
母の文箱(ふばこ)の中に、父が出征後戦地から母宛てに出した葉書10通余りと、父の戦死の9ヶ月後、その部隊から送られてきた書簡が見つかった。葉書の差出人は1941(昭和16)年9月22日から1942(昭和17)年2月23日までは、茨城県東茨城郡長岡村東部百参部隊山中隊堀田班・大橋慶夫で、それ以降は日付はないが、南方派遣高1863部隊斉田隊・大橋慶夫からとあった。
父親の肉筆を見たのはこれがはじめてであった。あまり達筆とはいえないが、文章も漢字も、小学校から大学までロサンゼルスで育ち、日本の学校にまったく行ったことがないにしてはたいしたものだと感心した。
日本語は父にとって外国語ではないにしても、二番目の言語だ。祖父・廓道の教育の成果だろう。祖父は元僧職にあった人だから、さもありなんと納得。私の留学の際、身元引受人になってくれた叔母(父の妹)も米国生まれ米国育ちであったが、日本語は会話だけなく読み書きも驚くほど達者だった。
父のことを思うとき、決まって自分のアイデンティティーについてはどう考えていたのだろうか思いをめぐらす。アメリカで育ちながら、日本の陸軍に入隊して、対米でこそなかったが英国との戦闘で戦死――。
戦死した場所メイクテイラ(またはメークテイラ Meiktila)をインターネットで検索すると結構出てくる。戦記の類である。戦争初期の頃だけでなく、終戦の前年のインパール作戦に関連しても、激戦地として言及されている。
父が戦死した昭和17年10月はまだ戦況もそれほど悪化していなくて、遺骨はむろん、遺留品もすべて戻ってきた。亡くなったときに身につけていた懐中時計や、それについていた卒業大学のキーホルダーがあったのを記憶している。
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