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第二章 今町と高田
──直江の津・今町は、かつて北前船(きたまえぶね)による舟運事業で全国でも指折りの港町として名を馳せた。
寛文(かんぶん)十二年(一六七二)、河村瑞賢(かわむらずいけん)が幕府の天領地であった庄内地方の年貢米を、大坂経由で江戸まで運んだ「西廻(にしまわ)り航路(こうろ)」が北前船(きたまえぶね)である。その範囲は北海道の蝦夷(えぞ)地から日本海側の各地の港を経由し、関門海峡を抜け、瀬戸内海を通って大坂にいたるもので、北前船の航路は当時の物資輸送の主要幹線であった。
特に江戸時代は越後の新田開発が盛んで、日本海側の港は米の積み出し港として大いに発展した。また米の他、蝦夷地から東北の海産物や木材、紅花などの商品作物、織物など各地の特産品が北前船によって輸送されたことから、寄港地周辺には、廻船問屋や倉庫などが建ち並ぶ町が形成されていった。
お遥の父、高橋善兵衛(ぜんべえ)のような廻船問屋の権利が保障されており、寄港するすべての船は廻船問屋の添証文(そえしようもん)をもらわなければ入港できなかった。今町陣屋と沖の口番所(税関)に届けた後、再度、廻船問屋との取引が行われた。出港の場合も同様の手続きを行わなければならなかった。
北前船で栄えた直江の津・今町の廻船問屋や今町陣屋、沖の口番所は莫大な運上銀や税で潤い、舟運の町として全国に名を広めた。天保(てんぽう)の飢饉(ききん)などの影響は舟運事業には無縁だったため、当時困窮を極めた江戸幕府からもその潤沢な利権に目をつけられてしまう元ともなった。
庄内藩、川越藩、越後長岡藩を巻き込んだ「三方お国替え」の天保義民一揆の発生や、天領でできた米の運賃代も用途別に大きく課税された。
当時、直江の津・今町の廻船は六十三艘(そう)あったという。なお、全国規模の『全国有力船主一覧』では、直江の津・今町の福永氏が名を連ねている。個人所有で延べ船数十船所持していたという記録がある。なお有名な加賀の銭屋は延べ船数十五船である。
「大坂……」
濡れ鴉の男が、鳥居の反対側の柱に刻まれている字をみつけた。
尾道(おのみち)や大坂・瀬戸内から、北前船で多くの木材や石が米の代替品として搬送された。直江の津・今町の寺社仏閣には、西日本由来の物資材が多く使用されていた。
男は何かを思い出すかのように、頭に手を当てている。しかしいまひとつ思い出せないでいた。濡れ鴉の男と勘治は海猫亭に住み込みで働かせてもらうこととなり、掃除や皿洗い、雑用をこなし数日が過ぎた。