【前回の記事を読む】中尉の奥さんになる人ですかと聞かれた。「こんなきれいな方が奥さんになるなんて……」。違う、私は彼の……

二 横浜

奈津は実家で叔母からその写真を見せてもらっていた。少しぎこちなく写っていたが、着物姿の端正な顔立ちの女(ひと)だった。

「善通寺の商家の娘さんだって」

「分かった。一度家に帰って両親と話し合うよ」貞義は納得したようだった。

一時間程で面会は終わった。

「寒川のやつ俺の従妹に関心があって会いに来たんだ。なかなか、奈津が気に入ったようだ。今度休暇が取れれば、鎌倉か江の島辺りに三人で遊びに行こうか」別れ際に貞義は奈津の耳元で囁いた。

湘南富岡駅からの帰路、奈津はその日の出来事を思い返していた。それは牛が食べた草を、口と胃袋の間を何度も往復させて消化する反芻(はんすう)作業と同じようなものだった。

しかし、電車が屏風ヶ浦駅を過ぎた頃には、奈津は電車の振動の中で心地良い眠りに襲われていた。

三 開戦前夜

昭和十六年が明けると世情は慌ただしくなってきた。日本は前年に日独伊三国同盟を締結しており、巷(ちまた)では英米との戦争が始まるのではないかとの噂が流れていた。

既に欧州では戦争が拡大し、ドイツ、イタリアの枢軸国(すうじくこく)と英、仏、蘭などの連合国間で激しい戦闘が続いていた。

日本も中国大陸での戦線が拡大し、出征する兵士の壮行会の人列を頻繁に見るようになっていた。

それでもまだ港には外国船や貨物船の入出港もあり、大桟橋に外国船が着いたときなどにはまだ華やかな歓迎の催しも行われていた。

三月に奈津は二年間の専門学校の基礎過程を終了した。基礎課程終了で専攻した語学の基本は身に付いたとされて、就職したり世間常識に従って結婚の道を選ぶ者もいた。

奈津も一度帰郷するようにとの両親の希望もあったが、もう一年間専攻課程に進む決心をした。臨時職員として働いていた三十人ばかりの小さな貿易会社では、四月から正式な社員として採用された。

財閥系の商社や銀行やデパートにも勤めたいとも思ったが、この貿易会社で働いて得たものも少なからずあった。

それに奈津自身、自分の語学力や知識はまだまだ十分とは思っていなかったので、引き続き専門的な講義を受けたいと考えたためである。今の貿易会社ではそれが許された。

授業では貿易関連の専門的な知識、会計、生活習慣、宗教などの文化や顧客や観光客との対応などについて専門講師から直接話が聞けた。

あるときの講師は元外国航路の客室担当の船員だった。数週間から長ければ一カ月以上もかかる外国航路の船旅、それをお客様に退屈せずに楽しく過ごしていただくサービスや工夫について教わった。

例えば特等席や一等席の船室では、寝具の上に毛布で花模様を飾って歓迎する花毛布(はなもうふ)の織り方を教わったこともあった。飾る花の種類によって表す気持ちが異なることも初めて知った。