3 京都峠と神都
石塚山古墳から宇原神社と辿ってきたが、その先には険しい山が聳えている。現在はセメントを産出しており、外国のような光景を目の当たりにする。
今では苅田町から行橋市以南には陸路で簡単に行き来できるが、かつては湿地帯が二塚から片島にかけて広がっており、海岸部を通行するのは困難だった。人の往来は宇原神社の脇から続く山道に従い、高城山を越えてゆかなくてはならなかった。
魏志倭人伝に登場する不弥国の港草野津(かやのつ)は、高城山を下って京都平野に出るとその南に位置している。不弥国を宇美町に比定している主張は間違いだ。地元の偉人で幕末の国学者狭間畏三氏は著作『神代帝都考』でこの地が天孫降臨の地と記している。
彼は、今わたしの目の前にある高城山こそが、日向の高千穂峰だと喝破した。彼の脳裏には豊前国風土記逸文が常にあったのかもしれない。そこには「京都郡こそが天照大神の神都である」と記されていた。
そんな馬鹿なと思う人もいるだろうが、歴史を探究していくと、事実ほど意外なことの方が多いものだ。わたしたちがさも当然であるかのように教えられてきたものの方が間違いだった、それはこの場所にも当てはまる。
この地に降臨した天孫は、邇邇芸尊(ににぎのみこと)かそれとも饒速日尊のどちらであるか、そんな疑問がわたしの脳裏を掠めた。ただ皇統には二系統あるのは確かだ。石塚山古墳や高城山という失われた王朝の残滓を、我々は目の当たりにしているのではないだろうか。この辺は度々わたしの調査に出現するテーマになるだろう。
天孫降臨譚のオリジナルは、饒速日尊とする説も存在している。近くの山中には白山多賀神社があり、御所山古墳の白庭神社に饒速日尊が祀られている。また饒速日尊を祖神として敬った大原足尼(すくね)命を大原八幡神社が祀っている。
では、なぜ彼らは忽然とこの地から消えてしまったのか。何かを機会に価値観が大きく変わったのではないかとわたしは考えた。ただこの時のわたしは、遠く京都平野を眺めながら、ぼんやりとした結論のなかに明確な答えを持ってはいなかった。