【前回の記事を読む】馬を献上した百済王の名は何故伏せられたのか? 古事記と日本書紀が示す120年のずれの真相とは
第一章 「神功皇后紀」・「応神天皇紀」のからくり
2.なぜ干支二運をさかのぼらせたのか
神功四十六年は応神十五年である
なぜか。それはこの記事が、からくり仕掛けを動かす鍵になるからである。
百二十年を繰り下げた時代は、実は神功皇后の時代でも仁徳天皇の時代でもない。
それは、応神天皇の時代だというのがこの記事の意図だからである。
それは『日本書紀』自身が、各天皇の即位年と在位期間についてこれまでの設定を否定する記事でもあるわけだ。
それではこの鍵を使って、実際にからくり仕掛けを動かしてみよう。
まずは、肖古王の名が『日本書紀』に初めて出てくる、「神功紀」の四十六年条の記事である。
そこには、「肖古王は斯摩宿禰の従者爾波移(ニハヤ)に託して貢の品を献上した」ことが記されている。
そして、「応神紀」の十五年条の記事である。そこには、「百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を奉った」ことが記されている。
「応神紀」の十五年条の記事に肖古王の名は記されていないが、これらはいずれも百済王からの朝貢についての記事なのである。
これまでの考察の通り、阿直岐を遣わして、良馬二匹を奉ったのは百済の「肖古王」だった。それは「応神十五年」だった、と『日本書紀』が伝えているのだとすればどうだろう。
この「応神紀」の十五年条の記事は、「神功紀」の四十六年条の記事と重なることになるのではないか。
なぜなら、『日本書紀』に初めて肖古王の名が出てくるのは「神功四十六年」だからである。そしてニハヤに貢の品が託されたのも、「神功四十六年」と重なる「応神十五年」だったのである。
その貢の品の中には、良馬二匹も含まれていた。また阿直岐も、この時に来朝したのである。神功四十六年は、応神十五年なのである。
しかもこの応神十五年は、これまでの『日本書紀』が設定していた応神十五(西暦二八四)年ではない。
神功四十六(丙寅(ひのえとら):二四六)年から干支二運(百二十年)を繰り下げた三六六年(丙寅)こそが、新しく修正・設定された応神十五年の実年代になるわけである。そしてこの新たに設定された応神十五(三六六)年が、実年代に対応したこの国の天皇紀の新たな基準年(第二の基準年)になるわけだ。
つまり、『日本書紀』は、前回の第一の基準年と合わせ、二つの基準年を確保することによって、年表の中に実年代を表示して、その実年代に対応した天皇紀を新たに設定したわけである。