そういうと若菜は口を閉ざした。これから医師を目指そうとしている孫も同然な若者にはするべき話ではないだろう。しかし臭い物に蓋をするのと立ちはだかる壁を見上げるのとでは意味はまるで違うのだ。
高い壁であればあるほど、乗り越えた時には己を守る強固な盾となる。
「医者になったことそのものに後悔はない。これでもかというほどやり甲斐もあった。ただ、救えなかった命も少なくない。手段は尽くしたがどうすることもできず、死を遅らせる……せめて家族が到着するまで命を保たせることしかできなかったことも数えきれないほどあった」
「……」
「どうして助けてくれなかったんだと訴えかける患者や身内の顔が今でも夢に出ることがあるんだ。実際にそんな顔をしていたわけじゃない。助けられなかったという自責の念がワシに幻を見せていただけだともいえる」
少し怖がらせ過ぎたか。若菜は顔を強張らせて口を真一文字に結び、両手を強く握りしめていた。
「それにだ。どんな職業を選ぶにしても人間関係のトラブルがつきものになる。官公庁や民間企業が実施する医師を対象にした各種アンケートや調査の結果を見ると、医師の悩みやストレスの原因は長時間労働や待遇、人間関係がいつも上位に挙がる。
直属の上司である教授や他の同僚の医師との関係に悩む医師も少なくない。常に緊張感のある病院や医局内での人間関係は、今も昔も変わらず難しい問題のひとつといえるだろう」
「そのあたりは先生の好き嫌いとか部活の派閥と似てる気がします」
「そうだろう。今の子どもは学校生活で何かとしがらみが多いと聞く。若菜は大丈夫か?」
「うん。私は平気」
頬にえくぼを作って微笑んだ若菜の顔を見た景浦は胸を撫で下ろした。
「あとはそうだな……看護師や薬剤師など、一緒にチームを組む医療スタッフとの関係性の難しさにも苦労する場合がある。とくに経験の浅い若い医師の場合、ベテランの看護師からきつく当たられたりして人間関係の作り方に悩むこともあるな」
景浦自身も若い頃に同様の悩みを抱えていた。それでも乗り越えられたのは同期や研修医仲間、当時は看護師だった妻がいたからだと思っている。
次回更新は5月2日(土)、11時の予定です。
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