たとえば、19世紀イギリス最重要な哲学的批評家ジョン・ラスキンJohn Ruskin (1819-1900)は第一級の素描画家、水彩画家でもあり、文筆では隠れている精神の内奥を素描を通して覗かせた興味の尽きない存在である。

しかし彼のように鋭敏な絵画センスをもち、少年時代から、裕福で芸術好きの親のおかげでグランドトゥアーの機会にたびたび恵まれたばかりか、同時代の画家ターナーJoseph Mallord William Turner (1775-1851)を含む一流の画家たちの手ほどきで上達した精緻な素描力をもった人間でも、余技の画家にとどまったのである。

ラスキンほどの才能をもってしても十分活用することのできなかった実地観察の恩恵を、ウォッツは可能性の限り自らの作品制作に活かす高度な才能をもっていたといえる。

ミケランジェロの形体とヴェネツィア派の色彩による感化が、その後の制作の基調となり、生涯変わらなかった。

不可能な夢を踏み台にして

実地体験との関連でわれわれの注目を待っている重要な要素がある。それは短縮法や迎視法(イタリア語にいうsottinsù)を駆使した16世紀前半以降の天井画を実地に見て受けた影響である。

それはこの画家を評価するうえで、いまだに解明を待っている手つかずの問題領域である。彼の代表作が何であるかを考えるうえでこれらの影響は非常に重要である。

ウォッツがイタリアで実際に体験したミケランジェロの形体感覚は、幼少時に大英博物館で彼の目を奪ったエルギン・マーブルズの驚異を、ルネサンスという枠組みの中で咀嚼吸収し易くしたものと見られる。

しかしいくらパルテノン神殿より手近でも、ヴィクトリア朝の英国人とミケランジェロとの間には深淵が横たわっていた。

それはウォッツのフレスコ画への夢を打ち砕いた制作機会の少なさ、狭さ、小ささである。イギリスの湿潤な気候がフレスコ画の制作に不向きであったこともこの状況に輪をかけた。

さらに天井画というジャンルに関しては、状況はより悪く、制作機会は皆無であった。マンテーニャ、パオロ・ヴェロネーゼ、ティントレット、そしてポッツォやコレッジオ、ティエポロに代表される16世紀前半以降のバロックの天井画に霊感を受けた青年が、それをもとにソッティンスーの実験をしようとしても、その場がなければ机上の空論を巡らすしかない。

青年画家は意気揚々とイタリアから帰国したかも知れないが、イタリアへ渡ったために、実現不可能な夢を抱くという皮肉な運命を背負って帰ってきたわけである。

ところが、この画家は運命を恨んで絶望に沈むよりも、自分の与えられた制作環境の内で自らの画業の可能性を拡張し高める道を選んだように思える。

その後の彼の作品がその証拠である。ウォッツは果たせなかったフレスコ画と天井画の夢をキャンバスと油彩とによって昇華する方法を会得したのだ。

 

👉『ヴィクトリア朝古典主義の異端児』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】私の体を滅茶苦茶にしたあの人は、さえない中年の教師だった。前の席の女子が思わず「キモイんだけど」と漏らすような。

【注目記事】30年続いた不倫関係。当初彼は「避妊はしない。二人の子どもができたら嬉しい」と言ったが、実際に子どもが宿ってしまい…