──直江の津・今町は越後の西部、日本海に面した河口に位置しており、砂丘の上に築かれた町である。
荒海の日本海は、冬季に大陸から北西の季節風が吹き、海岸を浸食し、海底の砂を移動させ、砂山を形成した。砂や波しぶきを二里(約八キロメートル)先まで吹き飛ばすこともある。直江の津・今町の砂丘は北西の季節風により形成されたものである。
八世紀には越後国に国府が置かれ、交通と商業の中心地として栄えた。海岸付近は交易集落が市(いち)をなし、北陸道の発展の母体となった。
平安中期には荘園が勃興し『直江荘』といわれ、鎌倉時代に〝直江の浦(うら)〟または〝直江の津〟と称されるようになった。
室町時代から長尾家(後の上杉家)が守護職に就くと、長尾為景(ためかげ)が鉢ケ峰(はちがみね)城(春日山城)を本格的に整備。
その末子(ばつし)・長尾景虎(かげとら)(上杉謙信)が鉢ケ峰城主となった後は、直江の津の港は軍備・交通の要衝地として最も栄え、京の都に次ぐ大都市へと変貌した。上杉謙信の類(たぐ)い稀(まれ)なる経済手腕の一つ『青苧(あおそ)』独占権の売り上げが大きい。
上杉謙信以後、春日山城主についた堀秀治(ひではる)は、直江の津の港の東部に福島城を築き、周囲に城下町を形成した。
その後、慶長十九年(一六一四)、松平忠輝(ただてる)が高田に新たな城を築いて福島城から移ると、直江の津の寺社・問屋・豪商までが高田へ移転させられた。
その後、直江の津の港は高田藩の外港として米の積み出しや物資の移入などの役割を担うこととなった。
勘治が直江の津・今町の町屋街を目の当たりにして驚いたのは、
─迷路─
そのものであったからである。
びっしりと建ち並ぶ町屋の家々の間を縫うようにして小さな路地、
─小地(しようじ)─
といわれる小さな路地が張りめぐらされている。
当時の直江の津・今町の民家は、一三〇〇軒以上あったといわれている。小さな町中に家がひしめきあっていたといえよう。全国的にもかなりの人口高密度である。
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