「東さんのこと、ずっと覚えていますよ。少なくとも私が死ぬまでは」
「……恩に着る。まだ若いのに変な業を背負わせて悪いな」
「独身の一人っ子で身軽なのでちょっとくらいなら平気ですよ。涼子さんのことも可能な限り目をかけてみます」
「助かるよ」
そう言った東の目尻に深いシワが刻まれたのを見た葵はいい歳の取り方をした人なんだなと思った。
「さて、そろそろいくとするか」
「東さん」
ふと、課長が口を挟んだ。
「奥様にお渡しするものはございますか? 名刺や免許証などの個人を特定するようなものはお渡しできませんが」
「託すモノ、か。ちょっと待ってくれ」
葵は腕を組んで思案に暮れる東の上着に視線が吸い寄せられた。厳密には、仕立てのいいスーツの胸ポケットに。そこにはタバコの箱がひょっこりと顔を覗かせている。
「東さん、それ……」
「ん、あぁ、これか」
赤と白を基調としたシンプルなデザインの箱にはアルファベットで[Marlboro]と書いてある。人生で一度もタバコを吸ったことがない葵でも知っているメーカーだ。
「……そうだな。今の俺にはちょうどいい。ありがとう。キミに言われなければ思いつかなかった」
「いえ、そんな。私は別に……」
言葉尻を濁す葵をよそに、東は課長にマルボロの箱を手渡した。「頼んだぞ」と一言添えて。
「良い旅を」
課長が告げると東は満足げに微笑み、再び扉を開けて病室の中へと消えた。それっきり二度と姿を見せることはなかった。
次回更新は1月24日(土)、11時の予定です。
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