【前回の記事を読む】自宅で過ごせたのは約1年…10歳の時には膝・腰の痛みと筋肉の衰えが進んでいき、入院を境に歩けなくなり車いす生活になった。

4章 大阪大学附属病院入院時代

辛い日々をやっとの思いで乗り越え絶食が解禁された!

私は好きなものを食べつくした。チキンラーメン、たらこおにぎり、カレーパンと炭酸ジュースを平らげた。幸せだったぁ~。私のエネルギーはみなぎってきたぁっ! カンナ様、復活!

だがだが、人生はそんなに甘くはない。

一気に食べ過ぎたのか、お腹をこわして夜中じゅう腸がねじれたようにトイレの往復だった(恥)。

主治医の井上先生に「限度ってものがある、少しずつ食べていかなあかん」と叱られた。

次の個室経験は、私が発疹を出した時だ。

し・か・し、私は、わぎぁーっと叫んだ。

信じられないことに、その病室には“ゴキブリ”がうじょうじょいたのだ(なんちゅう病室だ)。母はすぐに井上先生に報告した。病室はすぐに消毒された。しかしながら、消毒の効果は全くなく黒光りのゴキブリたちはドアの隙間や天井から現れた。

そのため二四時間電気をつけっ放しにしていた。母はゴキブリたちが私に近づかないように、小さい刷毛で彼らを追い払い格闘してくれた。大部屋に戻れた時は母も私もホッとした。

阪大病院での入院中も、私は病院食を一度も食べたことがない。私は食べたいものだけを食べて いた。母は百貨店でおかずを買ってきてくれ、出前を取ってくれていた。私の体調が良ければ夕食は車いすでも行ける範囲の洋食屋さんや焼き肉屋さんに時々母と行っていた。そこの洋食屋さんのカニクリームコロッケとコーンポタージュは美味しかった。

余談だが、たまにお互いにばつが悪いことに、出入り口で私服に着替えた看護師さんたちに出くわしてしまうのだ。現在と比べて三〇年近く前の病院の規制は緩かったのだろうかなんなのか、幸いなことに見て見ぬふりをしてくれていた。