【前回の記事を読む】少女の若年性多関節リウマチはどんどん悪化し、40度以上の高熱と我慢できないほどの多関節の痛み、指のこわばりが…
4章 大阪大学附属病院入院時代
入院生活
残念ながら、若年性多関節リウマチの症状が悪化し、私が家で過ごせたのはたったの一年余りだった。大阪大学附属病院に入院したのは九歳の時だった。入院中は部長先生の河敬世先生と主治医の井上雅美先生にずっと診てもらっていた。
尊敬・信頼できる彼らは、私の“偉大なる人たち図鑑”にもちろん名を連ねている。阪大病院では、九歳から一二歳までの約三年間を過ごした。
当時の正直な気持ちを表現するなら、「また投獄されてしまった……」の一言に尽きる。入院前は走ること段差を上ることはできなかったが、なんとかゆっくり歩けていた。入院後の一〇歳の時に私の膝の痛みと腰痛や筋肉の衰えが進んでいき、何かに摑まらないと擦り足ですら歩くことができなくなっていた。
阪大病院入院を境に歩けなくなり、それ以来私の車いすの生活・人生が始まった。つまり、車いす歴は二九年になる。なかなかの車いすプロの域に達していると言える(笑)。私の腰は圧迫骨折を繰り返すようになり、硬い素材でできていて腰を完全に固定するコルセットを使うようになった。
電動車いすになるまでは家族がどこに行くにも車いすを押してくれていた。腰痛のため座ることが困難になり、私の記憶では二、三週間ベッドで寝た切り状態だった。ご飯も寝たまま食べていた。
歩行不可能になった私はトイレへ行くのも困難になり小も大もベッドの上でするようになった。初めて大を部屋でした時は屈辱的に感じた。それには最後まで慣れなかった。