それに加え、お風呂も入れなくなり熱いタオルで体を拭くだけになった。私の行動範囲はベッドの上だけになった。
少しずつできないことが増えていき、当時の私は遊びたいなどやりたいことを思う“ココロ”すら失った。表面上は猫かぶりで良い子を演じ、心の中では「話しかけるなっ、近づくなっ」と叫んでいた。
阪大病院での入院中は、母が看病してくれた。母は大好きだった仕事を辞め、腰を据えて私の看病に専念する決断をしてくれたのだ。
ベッドと呼ぶにはあまりにも不適切な小さい付き添い用ベッドで母は寝起きし看病してくれた。母には感謝の気持ちでいっぱいだ。
この三年間は基本的に六人の大部屋で過ごした。基本的にというのは、病状によって個室に移動していたからだ。
私が個室に引っ越ししたのは数回だけだった。初めての個室への引っ越しは、私が消化器系の病気になった時だ。二週間の絶食で、その日一日に飲める水の量も看護師さんに管理されていた。
栄養は点滴で摂取していた。食い意地が張っている私はお腹がすいてたまらず、頭がおかしくなる手前だった。
母は私に気を使って外食をしてくれていたが、後半になると母も疲れてきたのだろう。母は私が寝ているベッドの横でから揚げ弁当を食べたのだっ! 私は「匂いがぁ~あぁ~」と気が遠くなり、心がボキッと折れた。
次回更新は12月12日(金)、18時の予定です。
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