一 誕生から世間一般で言う〝障害者〟になるまで

健康優良児

私は、祖母、両親、姉と弟の六人家族の次女として生まれた。生まれた時は身長五一センチ、体重約三〇五〇グラムの健康優良児そのものだったそうだ。母が言うには、離乳食の時期にご飯にお味噌汁をかけたご飯を食べさせたら美味しそうに食べたので離乳食をスキップしたらしい。

さらに床に落ちていたカチカチになったご飯粒ですら食べるくらい、食い意地が張っていた(なぜ止めなかったのだろう。笑)。初めての子供として生まれた姉とは違って、私は雑に扱われていたような想像がつく。恥ずかしいが食い意地は今でも直っていない。

すくすくと成長した私は、幼稚園の年長さんに入園した。途中入園だったので、友達はあまりできなかった。遊び時間は一人砂場で過ごしていた記憶がある。しかし、幼稚園を休むことはなかったので、苦痛だけではなく、それなりに楽しかったのだろう。

そして、母に百円をもらって駄菓子屋に行くと、気前よく他の子供たちにおごっていたそうだ。「宵越しの金は持たないぜぇ」的に太っ腹だった。しかし、今では家族の中で一番のケチと罵られている。特に弟にケチケチと言われている。「その根拠はなんやねんっ」と。私は潔白だ。弟とこの件に関していつか正面衝突しなければならないだろう。

運動オンチの黒歴史

運動神経は自他共に認める抜群の悪さだった。逆上がりは一度も成功したことはなく、自転車もいつも補助輪付きで、スキップのタイミングも摑めたことはなく、今に至る。

昔も今も私の目標・憧れである三つ歳の離れた姉は、スキップは朝めし前、鉄棒も自転車もホイホイとなんでもこなせた。その姉に追い付け追い越せで頑張ったが無理だった。その後、「若年性多関節リウマチ」という病気になり、大阪大学附属病院に入院した九歳の時に、これからはもうそれらを達成できないのだと悟った時は悔しかった。