【前回の記事を読む】5歳の時に「若年性多関節リウマチ」と診断された。健康優良児として楽しく過ごした日々は音を立てて崩れ落ちた…

二章 大阪警察病院入院時代

若年性多関節リウマチ

私は大阪警察病院で五歳から七歳までの約二年間入院していた。その長い入院生活を家族と共に支えてくれていたのが、約二年間変わらず一生懸命診て下さった主治医の谷池雅子先生だった。谷池先生はとても優しく厳しいお医者さんだった。

私が勉強もせず、おせんべいを食べながら、大のお気に入りだった真っ赤なラジカセで、当時流行っていたチェッカーズを聴いていると、先生が病室に来て、お菓子は没収され、「学校に行ってなくても勉強はちゃんとせなアカン」といつも叱られていた。先生は私を甘やかすことは一切しなかったし、言わなかった。

私は五歳の時に「若年性多関節リウマチ」という病名をつけられた。若年性多関節リウマチとは、難病指定にされている免疫異常の一種の病気だ。免疫は体に異変(例えば風邪など)が起きた場合に、感知し頑張ってその異変をやっつけにかかるのだ。

しかし、私の免疫は正常に働かず、体になんの異変も起きていないのに異変が起きていると勘違いし、いつも戦闘態勢でいる。ハムスターが輪っかの中で走り続けているように、私の免疫も常にフル稼働している。多関節という名が示すように自分自身のすべての関節を攻撃してくる。

その当時の症状としては、免疫に攻撃されたことで私の足の指を含むすべての関節が地獄の激痛に襲われ、指の関節が赤く腫れあがり、四〇度以上の高熱が続いた。そして、後に待っていたのは関節が変形し生活の質が低下していったことだった。

私の病気は膠原病の一種でもある。膠原病とは共通する症状を持った病気を総称する言葉で、関節の腫れやこわばり、痛みが共通する症状だ。私が診断された三五年近く前と違って、現在は医療の進歩で治療の選択肢も増えている。薬の服用、定期的な点滴治療、人工関節置換術の治療のおかげで私の現在の症状や炎症は小康状態にある。