先生は、「明日には帰れるし、もう少し頑張ろっか」と言った。不安な気持ちでその夜を過ごし、次の日には予定どおり家路についた。帰ってきてから私は、働いている母にすぐに電話をした。私の声はガラガラだったそうだ。
そして、母は病気のことを連絡してくれなかった担任の先生にものすごく怒っていた。母が懸念していたように、その夜に四〇度以上の高熱が出て、大阪市西区にある緊急病院に行った。
そこでは“扁桃腺”が原因と言われた。その翌日の朝、近くの小児科医院に行き同じことを診断された。座薬の解熱剤を処方されただけだった。座薬は効かず、次の日もその次の日も高熱は下がらず、三日間緊急病院に通った。
母は、とある小児科専門病院に私を入院させた。母は仕事終わりに病院に来て私に付き添い、病院から仕事に行っていた。入院した一週間は私にとって拷問の日々だった。たくさんの血液検査、更に太い針で腰にゴリゴリッと刺す骨髄検査までさせられた。あの時の骨髄検査を思い出すと今でも鳥肌が立つ。
四〇度以上の高熱は続き私は食事も取れず、挙句の果てに原因すら見つけてくれなかった。その先生は藪医者だったと言いたい。その病院の反対を押し切って、母は、私と姉弟を産んだ信頼できる大阪警察病院に私を転院させることを決意したそうだ。
ここで私のラッキーが発揮された! 他の子の入院がキャンセルになり、個室が空き入院することができた。そして、警察病院で、私は「若年性多関節リウマチ」と診断された。これが今から三四年前の出来事になる。ここから、私は、世間一般で言うところの“身体障害者”の人生を歩むことになる。
次回更新は12月6日(土)、18時の予定です。
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