【前回記事を読む】1189年以前には存在した!? 古代京跡の分布から探る、カイトという謎の地名の成り立ちとその背景とは
第一章 カイト地名とは
六、カイトはいつ頃できたのか
(三)カイトは七四三年以前には存在した
条里制地割が制定されたのは大化の改新の時ですが、実際に工事が行われたのは七四三年が最初と言われています。奈良盆地で実施された条理制区画を奈良女子大の『小字データベース』で調べてみますと、カイト地名区画が条里制区画から外されて実施されている場合が多く見受けられます。
このことからカイトは七四三年以前にすでに実施されていたと考えられます。
(四)カイトの施行は七二〇年~八〇〇年の間に行われた
九州南部にもカイト地名はありません。七二〇年に隼人が大和朝廷に対して起こした反乱により、当該地域への班田収授の適用は八〇〇年頃まで先送りされたようです。
したがって、カイトの施行は七二〇年以降、八〇〇年以前となります。私説ですが、隼人の乱は前年に出された「天下の民戸に陸田一~廿町歩を支給する」という詔が関係していると考えます。
(五)カイトの施行は七一九年以降である
『続日本紀』によれば、養老三年(七一九年)に「天下の民戸に陸田一〜廿町歩を支給する」という詔が発出されました。陸田とは畑のことと思われます。郡上市のカイトの立地を見ますと、ほとんどの場所は畑・屋敷であり、田であるところも江戸時代以降に転換されたものです。
「天下の民戸(みんこ)……」ではなくて、私は「天下の民戸(かきと)……」と読み、天武天皇六七五年に収公された最後の民部(かきべ)であり、その集落「民処(かきどころ)」を指すと考えます。
写真を拡大 表―1 カイト地名ができた時期推定
以上五項目については表―1でまとめてみました。カイトの施行はとりあえず、その可能性のある期間ですべてが該当する七二〇年から七四三年(濃い塗りつぶし)の間であると設定しました。