「はじめに」でも触れましたが、私の家が縄文遺跡に接していることを知ったのは、中学一年の頃でした。当時は現在のように耕地整理もされておらず、探し始めてすぐに石鏃数点と縄文土器のかけら数点を発見したものです。
その後一度郡上を離れましたが、十数年ほどで帰ってきて、地元小中学校教員の寮だったところに家を建てました。晩秋の取り入れが終わった田んぼの中を子供たちと一緒に探して歩くと、数点の石器が見つかりました。子供たち二人も夢中になり、夏休みの研究等で私の知らなかったほかの二地区の縄文遺跡も調べ上げていました。
それに同行して私も他地区の縄文遺跡も調査するようになり、石皿や打製石斧・磨製石斧、石匙、石錐等も収集できました。
そして近くの寺の住職から、以前枕石という石器や石皿等が保管されていたが、紛失して見当たらないとのことや、宇留良の遺跡からは石剣二本が発見され、近くの白山神社に保管されていましたが、これも紛失して行方がわからないこと等を聞いて、次第に縄文の生活の様子が描けるようになってきました。
そうした結果から私の住む郡上市八幡町那比地区――集落のうちの、四ヶ所の縄文遺跡のある集落のみに、カイト地名が存在することが判明したのです。その時は「カイトは縄文語に違いない」とたいへんな事実を発見したと大喜びをしたのでした。
【イチオシ記事】電車でぐったりしていた私に声をかけてきたのは、不倫相手の妻だった
【注目記事】父は窒息死、母は凍死、長女は溺死── 家族は4人、しかし死体は三つ、靴も3足。静岡県藤市十燈荘で起きた異様すぎる一家殺害事件