自宅に戻ると、お腹の大きい妻がリビングでテレビを見ていた。
「朱莉……無事だったんだ」
俺は、思わず意味不明な言葉を口にしてしまった。
「無事って? 何も危ないことしてないわよ。お腹の子も順調だし」
妻は、不思議そうに首を傾げた。
「心春も無事なのか?」と口走ると、妻は半笑いで言った。
「誰それ? 赤ちゃんの名前のつもり?」
記憶が混乱し、現実と虚構の区別がつかなくなっていた。
「とにかく、徹夜で実験したから、今日は休みをもらった」
そう言って寝室に倒れ込むと、意識は闇に沈んだ。
翌朝、目を覚ましても頭は靄(もや)がかかり、状況を理解できない。
そもそも、なぜ「不妊に苦しむ男性」という不可解なシミュレーションに志願したのか。そして、中止された研究が、なぜ続いていたのかわからない。
体調に不安を抱えながら出社すると、同僚たちが声をかけてきた。
「もう大丈夫なんですか? タフですね」
気遣いを受けても、頭の中は疑問でいっぱいだった。どうしても確かめなければならない。
自分のパソコンを開き、治験関連の資料を探した。だがセキュリティがかかっており、パスワードが思い出せない。
実験の後遺症で、記憶が混乱している。
その時、同じフォルダに『パスワード』というテキストを見つけた。
「鉄壁なようでザルだな」と呟きつつ開くと、一行だけ英文があった。
「The happiest moment inscribed on the ring」
直訳すると「指輪に刻まれた最も幸せな瞬間」
すぐに閃いた。結婚指輪の内側に刻んだ文字だ。「20xx.0527JtoA」俺たちの結婚記念日。
そのファイルの作成日は治験前日。トラブルに備えて残したのだろう。そこまで危険な実験だったのかと身震いした。
ファイルを開くと、治験に至る経緯が事細かに記されていた。
形式ばった計画書ではなく、自分の思いを綴った備忘録だった。
内容はこうだ。
次回更新は11月9日(日)、21時の予定です。
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