プロローグ 消えた境界線
「なんで起こしてくれなかったのよ! パパ、学校に遅れそうだから、駅まで車で送って!」
リビングの扉を勢いよく開け、娘が顔を出して叫んだ。
スマホのタイマーを設定し忘れたらしく、起きたのは今から五分前らしい。
既に八時を回っている。もう出掛けたと思い、ゆっくり食事していた俺は、
「めんどくさいなぁ」と文句を言いながら、パンを口に放り込んだ。
妻の朱莉(あかり)は、「パパは心春(こはる)の言うことだったらなんでも聞くから。ねぇ、そうでしょ」と、俺に向かって言った。
「なんでもはないぞ」と言いながら、右手にはすでに車のキーを握っていた。
駅までは約十五分。車内は、推しのアイドルから世間話まで、娘の笑い声と共に賑やかな空間だ。特に最近は、高校の授業で習った、生成AIを応用した言語学習関連の話題でもちきりだ。
「ある事象に対して、生成AIと会話しながら、本来の目的に導くシミュレーションをしているんだよ。パパには難しいかもしれないけど」
パパには難しい……か。どうだろうか。
「生成AIの結果をどう使うか、それが問題だね」
そんな軽い会話を交わしながら、あっという間に駅に到着した。
「五時頃に、駅まで迎えに来てね! ヨロシク」
娘は、迎えに来てくれるのが当然のような顔をして、手を振りながら駅の方へ走っていった。
その後ろ姿を見ていると、ふと疑問が湧いてきた。
「あの女の子は誰だ? 俺のことをパパと呼んでいたが……」
自宅に戻ると、駐車場に俺のオートバイがなかった。
ちょうど仕事に出掛けようとしていた妻に、
「朱莉、ガレージに置いてあった俺のオートバイ、瑠璃色のオートバイはどこいったんだ?」と尋ねた。
妻は不思議そうな顔をして、
「今更、なに冗談言ってるのよ。心春が生まれた時に処分したじゃない」
心春が生まれた時? そうか。さっき駅まで送って行ったのは、俺の娘か。オートバイも処分したっけ?
表向きは、何気ない幸せな毎日を送っているように見える。しかし、十五年前、自ら開発した実験用プログラムの後遺症は、今でも俺の記憶を混乱させている。
その時の出来事を振り返ってお話する。