【前回の記事を読む】出産から5日後、震度7の地震が妻と娘のいる病院を襲った。娘が保育器で眠る3階は、上下のフロアに押し潰されたという。
第三章 虚構の証明
目を覚ますと、そこはクォークボトム研究室の実験室だった。治験のためセントラルユニティ社にいたはずなのに、なぜ自分の会社に?
枕元には、先輩の美本秀斗(よしもとしゅうと)が立っていた。
「おい、大丈夫か? すごい声で叫んでいたぞ」
状況がまったく掴めない。
美本は、苦笑しながらも心配そうに言った。
「現実世界へようこそ……って、冗談言ってる場合じゃないか。大丈夫か?」
俺は『シンクロ』プログラムによって、三種類の記憶をシミュレーションした。だが、美本の口から出た予想外の言葉に驚愕した。
「健常者が不妊の男性を演じた感想はどうだった?」
「健常者? 演じた……?」
言葉を失った。俺は無精子症という現実に直面し、その解決策を探すために治験に参加したはずだ。だが美本の説明によれば、それはすべて生成AIの虚構だった。
「だから、すべてはシミュレーションで……」
美本の説明を遮り、俺は叫びかけた。
「三週間かけて参加したこの治験、どこからどこまでがシミュレーションなんですか? 教えてください。実は、俺は……」
しかし、言葉が喉に詰まった。無精子症のことは妻と医師以外には秘密だったからだ。
美本は怪訝そうに首を傾げた。
「何を言っているんだ。三週間って? 治験は今晩だけのはず。それに、無精子症を含む全ての設定は、セントラルユニティ社の須磨谷さんの協力で作られたものだ。まさか記憶が混乱してるのか?」
頭の中が真っ白になった。三回に分けて参加した治験、実はひと晩に繰り広げられた壮大なシミュレーションだった?
俺の人生を支配していた苦悩は、ただの『仮想の悲劇』だったというのか?
いや、違う。保育器の中で娘が指を握り返してきた感触を、俺は確かに覚えている。その実感がある限り、あれを虚構とは信じられなかった。
現実と虚構の境界線は完全に崩壊し、俺は混乱の中で立ち尽くした。
その『シンクロ』は倫理的な問題を多く抱え、医療機関から中止要請が出されていたのは、須磨谷志保の証言と一致している。だが研究は秘密裏に続けられていたらしい。
俺は、怪しげな治験に自ら飛び込んだのだ。
シミュレーションの中で、俺は何度も絶望の淵に立たされた。
離婚、妻の死、不妊治療の失敗、震災。そのたびに心は引き裂かれ、虚構であることなど微塵も疑わなかった。だがそれは『シンクロ』の有効性と危険性を、俺自身が身をもって証明する実験だったのかもしれない。
その日は仕事をせず、同僚に送られて朝イチで帰宅した。虚構の世界をまだ彷徨(さまよ)っているように足元はふらつき、まともに歩くことすらできなかった。