妻との別れ、コンビニ弁当の味、一人で過ごした寂しい夜、その一つ一つが、まるで長い年月をかけて実際に体験してきた記憶のように脳裏に刻まれていた。

「ただのデータのはずなのに……あまりに鮮明だ」

自分の声が震えていた。

彼女は何も言わず、ただ静かにこちらを見ていた。

これは映像体験などではない。記憶の移植ではなく、人生そのものの移植、いや書き換えに等しい。

たった一晩で、俺の人生観は根底から揺さぶられていた。孤独と後悔に縛られた未来は、夢から覚めても心に重くのしかかっていた。

「来週は、夫婦お二人だけの人生を体験してみましょうか?」

彼女の問いかけに、言葉が出なかった。ただ静かに頷くしかなかった。その日は会社に行ったが、頭は働かなかった。昨晩の体験があまりにリアルすぎて、仕事の一つ一つが上の空になった。

夜、帰宅すると妻が夕食を用意して待っていた。

「昨晩はどうだった?疲れてるみたいね」

何気ない問いかけに、胸が詰まった。隣にいる安心感、声をかけてくれる温もり、それは、あの孤独な未来とあまりに対照的だった。

「典型的な独身生活って感じかな」

目を合わせずにそう答えると、妻は、

「どうせ怠惰な生活だったんでしょうね」と笑った。

笑って済ませられるならよかったが、俺は惨めな最期を迎えていた。

記憶が鮮明すぎて、現実と仮想の境界があいまいなままだった。だが妻が背中にそっと触れた瞬間、冷たい幻影は溶けていき、涙があふれた。

ああ、妻はここにいる。たったそれだけでよかった。二度とあの孤独な未来は選ばないと心から思えた。一週間後、再びセントラルユニティ社の一室にいた。

「今日のシミュレーションは『夫婦お二人だけの人生』です。リラックスしてお休みください」

彼女の声に、今回は安心して任せられる気がした。

次回更新は11月5日(水)、21時の予定です。

 

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