後の般若経典では、物的存在のことを色(しき)といい、目に見えず移ろうこともない因縁律のことは、空(くう)なるもの、あるいは単に、空と称した。
物的存在(色)の本質は、存在と存在の間に横たわる、関係律すなわち因縁律(空)にある。逆に、空すなわち因縁律こそ、色すなわち物的存在の本質である。般若心経はこれを「色即是空、空即是色」(色は空であり、空は色である。色の本質は空であり、空こそ、色の本質である)という簡潔な命題として、今に伝えている。
この命題、当時としては難解であったに違いない命題を、後の大乗教徒たちが、難解ゆえに誤解したように、単に、物的存在は空しく移ろいやすい実体のないものに過ぎない、などという中途半端な意味に誤解してはよくない。こういう誤解からは究極のところ、ニヒリズムしか出生しない。
余談であるが、存在の本質は、存在と存在の間に横たわる、目には見えない相互の関係律にある、という因縁の思想は、例えば、「存在は本来、自由である」というがごとき、曖昧模糊たる自由の概念を、粉砕する。
存在は、決して、自由な存在ではあり得ない。本質的に、自由ではあり得ない。このことを、明確に主張するのが、シャカの因縁律の思想の本質である。
自由という概念は、具体的に何からの自由なのかを規定しながら用いるのでなければ、極めて虚ろな概念である。全ての存在は、互いの関係律の裡に強く結びつけられており、本質的に、自由ではないのである。
近代のフランス革命からアメリカ合衆国の建国に至る過程で、自由という概念がしきりに強調されるようになるが、これ以後、何からの自由であるかという概念規定を超えて、曖昧模糊たる自由概念が一人歩きするという、いわば思想の貧困時代に入ることになった。
貧困な思想は、独善の温床である。合衆国はニューヨークのリバティ島に、自由の女神像が、虚ろな頭脳を支えて、立っている。一八八六年に合衆国の独立一〇〇周年を記念して、フランスから贈られた像である。
二〇〇一年九月十一日の同時多発テロ以後、その虚ろな頭の展望台への自由な入場は長く禁止された。自由という思想の虚無性・独善性を、自由の女神は、高々とたいまつを掲げた巨大な姿を以て、世界に示唆してくれている。
存在は、本質的に自由ではあり得ない。互いに無限の関係律によって結ばれている。この相対的な関係律を正しく誠実に考え抜くことなくして、個々の束縛からの自由などもあり得ない。
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