【前回の記事を読む】人間とはどのような生き物か。――人間存在の根源を問い続けようとするとき、その仕事は、歴史学の最も重要な責務に重なる

序論

第一節 日本古代史への動機とシャカムニの思想および母系制と父系制についての序論

筆者が当拙稿の究極の目的とし、当拙稿の動機とするものも、ひとえにこの問いである。

人間とは何か、本来何者であり、何者であるべく遺伝付けられ、運命付けられてあったのか、人間とは、何を幸福とし、何を求めたか、何を求めるべき生き物として進化したのか、人間は、いかに生きるべきか、いかに生きるのが真に幸福であったのか、真に幸福であるのか。

宇宙は、百数十億年前に起こったビッグバンというエネルギー爆発(光爆発)によって誕生したとされているが(相対論的に表現すれば、クウォークサイズの空間のひずみがまず生じ、そこに光子つまりエネルギーが捕縛され、捕縛形態に応じて各種クウォークが、そして各種素粒子が、そして各種原子・分子・物質が生成された、といってよい。物質は全て光子からできている。E=mc2初めに光ありき、である。だから、素粒子論といい宇宙論といい、本質的には、ともに空間のひずみ論であり、幾何学の問題であり、ともに相対論的多次元空間の分類理論に他ならない)、この仮説が正しいにせよ誤っているにせよ、この果てもなく茫漠たる宇宙は、ともかくも、現在の我々の目の前に存在している。

その宇宙生成から悠久の時が過ぎ、四〇億年前に、地球が誕生し、三〇億年前に生命の芽が生まれ、芽は進化と分化を繰り返して、数百万年前には、直立二足歩行をする人類の祖先が地上を歩み始めた。

人類が文字を用いてその喜怒哀楽を文献に残し始めたのは、たかだか一万年以内前からのでき事である。人類のこの喜怒哀楽の歴史が、人間存在の本質を研究するための、まずは確実な一史料たりうる。

更にその文献に残るところ、すなわち歴史時代の人類史を遡及し、外挿して、人類数百万年の進化史、とりわけ心の進化史を究明する試みがなされるべきである。考古学、文化人類学、遺伝学などの助けが必須だろう。

文献は、十分批判的に研究されなければならない。文献の虚偽や不誠実をかぎ分けつつ、十分批判的に、考究されるべきである。言うまでもなく、これはたやすい仕事ではない。そうしてこれを更に過去へと外挿遡及する試みは、更に容易ではない。

容易ではないが、しかしながら、この研究の方向を過(あやま)たないための、羅針盤はあると考える。現存の人間そのものという、何よりも確かな羅針盤がある。

最も精確であるのは、自身の心という羅針盤である。自身の心の有り様を、可能な限り、誠実に追求してみるならば、そのなかに、人間存在を過去の歴史に照らしながら研究するための、最もたしかで精確な指針を読むことができるはずである。

自身の心の探究もまた、十分批判的に、十分自己批判的に、なされるべきである。この世のしがらみ、欲得ずくのがんじがらめという、智慧を曇らせる多くの邪魔物がもたらすはずの、虚偽や欺瞞や偽善や偽悪を、注意深くより分けながら、十分自己批判的になされる必要がある。