序論

今なお病の淵を彷徨う糟糠の妻に捧ぐ

第一節 日本古代史への動機とシャカムニの思想および母系制と父系制についての序論

「『駅のプラットホームから、一人の子供が、線路にころげ落ち、線路上に、うずくまってしまった。折しもその駅を通過する列車が、轟音を響かせながら、駅に近づいてくる。

プラットホーム上の人々は、息をのむ。数歩を駆け出そうとする人もいる。と、一人の若者が、ひらりと線路に舞い降りた。若者が、子供をプラットホームの上に投げあげるのと、列車が若者の姿をかき消すのとが、ほとんど同時に見えた。

子供に駆け寄り、子供を抱き上げる人、止まった列車の下を、のぞき込もうとする人。プラットホームには、異様な不安と悲しみに満ちた、騒然とした緊張感が漂った。と、列車の最後尾の向こうから、若者が、ズボンの泥を払いながら、姿を見せた。どよめきと、歓声。……』

この短文の掲げる一場面に、健康な大人ならば誰しも、容易に感情移入できると思います。しばし、この場面の人々と、感情の起伏を共にしてみてください。……

子供の転落を目撃した人々が、ほとんど例外なく、あっと息をのんだのは、なにゆえでしょう。人々が、思わず、子供の方へ駆け出そうとしたのは、なにゆえでしょう。若者の姿が見えなくなったとき、プラットホームを一瞬おおった不安と悲しみは、なにゆえでしょう。若者の姿が現れたときの、どよめく歓声は、なにゆえでしょう。

人間とは、どのような生き物であるかという、最も典型的な例証が、この一場面の人々の心に去来した一瞬の感情の起伏の中に、理屈抜きの感情の起伏の中に、確かにあると思われます。人類数百万年の進化史という淵源が、人類の心の遺伝子に刻み込んだ、魂の力の例証が、この中に在ると思われます。