週に一度、《千一夜劇場》でひと時の夢を見ること、八代丸征児に会うことが、次第に菫子の活力と生き甲斐になっていった。
と同時に、今まで何の変哲もない無味乾燥な職場だと思っていた印刷所が、意外にも活気に満ち、毎日決まりきったローテーションでしか動かない輪転機のようではなく、その日その日で手触りも温度も匂いも異なる変化に富んだ場所であることにも気づかされていった。
劇場のある雑居ビルの階段を一気に降りようとした時、菫子は階下の暗がりに一組の男女の姿があるのを確認した。男は征児、そして女はというと、それなりに着飾った身なりからして劇場関係者や劇団員のようではない。征児のファンの一人だろうか?
「今度はいつ会えるの?」
「まだわからないよ」
そんな会話が聞こえてくるようだった。あたりを憚(はばか)るように二人とも囁くような小声で話している。頬と頬が今にも触れ合いそうな距離だった。
「やあ、スミちゃん」
階段を降りてくる菫子に気づいた征児の方が先に、素早く女から離れた。女もすぐに居住まいを正し、「じゃあ、また連絡してね」とこれ見よがしに言いながら、狭い階段を昇ってきた。菫子の脇を通り過ぎる時、女がチラリと菫子を見る。視線に敵意があった。
女が階段を上がり切って地上に出、その姿が完全に見えなくなるのを確かめてから、征児がふうっと息を吐く。
「変なとこ、見られちゃったね」
「ううん」
何と言っていいかわからず、取り敢えず首を横に振ると、
「彼女ちょっとばかりしつこくて。だけど常連のお客さんだから邪険にはできないし。劇団びっくり箱が今後さらに成長していくためには何よりも固定ファンを増やしていくことが大事だろ? ある程度は付き合わないと」
「ある程度って?」
「君には誤解されたくないから言うけど、彼女に対して個人的な感情はこれっぽっちも持っていない。信じてほしい」
彼女には個人的な感情を持っていない……じゃあ私には? そう聞きたくなるのを菫子は既(すんで)のところで堪えた。核心に触れた瞬間、征児と自分をかろうじて繋いでいる細い糸がぷつんと切れてしまうような気がしたのだ。
征児はいつでも思わせぶりな言い方をする。今だってそうだ。「信じてほしい」「彼女は特別ではない」と遠巻きにするだけで、肝心なことは決して口にしない。女が言ってほしいのは、「彼女は特別ではない」ではなく、「君は特別な人だ」なのに。
【イチオシ記事】折角着た服はゆっくり脱がされ、力無く床に落ち互いの瞳に溺れた――私たちは溶ける様にベッドに沈んだ
【注目記事】「ええやん、妊娠せえへんから」…初めての経験は、生理中に終わった。――彼は茶道部室に私を連れ込み、中から鍵を閉め…