今宵、巣鴨の劇場で
印刷機の回る音が規則的に響く。
永遠に回るように思われるそのリフレインの中で、事務所に掛けられた大時計の長針が、その時だけカチリと明確な自己主張をして五時五十五分を指した。
あと五分―あと五分で私は汚れた作業服を脱ぎ捨て、代わりにガラスの靴を履き、ネズミの馭者(ぎょしゃ)に牽かれた南瓜(かぼちゃ)の馬車に乗るお姫様になれる。
馬車の行く先は巣鴨。
オバちゃんの原宿なんて野暮なことは言わないで。煌めくシャンデリアと果てしない冒険の世界が広がる夢のお城が私を待っているのだから。
「ごめん、スミちゃん。あたし今夜は行けないわ。今日中にこの製版、済ませちゃわないと」
六時きっかりに席を立った森田菫子(もりたすみこ)に山下加代子(やましたかよこ)が声をかけてきた。
「えっそうなの残念。でも頑張って。悪いけど私は行くね」
「うん。征(せい)ちゃんによろしく言って。来週は行けるから」
加代子に軽く手を振って、菫子はいそいそと事務所を出る。菫子と加代子の勤める高橋印刷(たかはしいんさつ)はJR大塚駅南口にあった。都電の線路を小走りに渡って駅に着くと、菫子はもう一度腕時計を見た。
「六時七分の外回りに乗れれば、六時半の開演に間に合う」
浮き立つ気持ちを抑えながら菫子は改札を走り抜ける。巣鴨は大塚の一駅先だ。
今夜の演目は《リチャード三世》。御贔屓(ごひいき)の役者、征ちゃんこと八代丸征児(やしろまるせいじ)が初めてシェイクスピア劇の主役に挑む記念すべき公演なのだ。
悪名高きイングランド王を征児がどんな風に演じるのか、考えるだけでワクワクする。
今夜のために董子はジョセフィン・ティ著の『時の娘』も再読した。歴史に残る悪王リチャード三世が本当にそんなに悪い王だったのか、捜査時の不慮の怪我で入院を余儀なくされた警察官の主人公が、看護師たちの助けを借りて、世の中にまかり通っている通説の真偽を問う物語だ。
いわゆる「ベッドの探偵もの」は董子の好きなジャンルだった。何らかの事情で動けなくなったことで、足ではなく頭が冴える―そういうことってあるんじゃないかな、と董子は思っている。