もちろん今夜征児が演じるのはシェイクスピアの戯曲の方なので、世間によく知られている悪王であるリチャード三世だ。しかし様々な予備知識をあらかじめ仕入れておくことは、観劇後に征児に感想を聞かれた時、ありきたりの答えをしないための下準備でもある。誰もがするような答えなどしたくない。
「へえ、スミちゃんてやっぱり見るとこ違うよね。参考になるよ」征児にそう言われたい。
脚が不自由だったと言われるリチャード三世になりきるため、征児が普段から歩き方を変えていたことも董子は知っている。独特の片足を引きずるような動作を完璧にモノにするため、征児は健常者のように歩くことを自分に許さなかった。
オフに道を歩く時でさえ足を引きずりながら歩くので、道行く人たちは彼が本当に足が不自由なのではないかと思い、道を譲ったり階段で手を貸そうとしたりした。そんな時、征児は鼻高々で董子にこう言った。
「俺、不器用だからさ。何でも人の倍やらないとダメなんだ」
征児のストイックなまでの演技への情熱を、菫子は何よりも尊敬していた。
遅れるわけにはいかない。それに、できれば開演前に楽屋の征児に会い、ひとこと激励の言葉を言いたい。
きっと征児はいつものように、
「嬉しいな。スミちゃんはきっと来てくれると思ったよ。君にこの薔薇を」
と言って、赤やピンク、黄色の薔薇の花を一輪、いつものように私の胸に挿してくれるだろう……そう思うと鼓動が速くなった。
巣鴨駅正面口の改札を出ると目の前に白山通りの大通りが横切っている。通りを渡り、山手線と並行して伸びる道を入ったすぐ右側に《一千夜劇場(せんいちやげきじょう)》という名の小さな劇場がある。
小さな雑居ビルの地下一階にあるその劇場は、オーナーの千田一也(せんだかずや)が、自身の名前の《千》と《一》を取り、さらには「お客様を楽しませる物語が千一夜も続くように」との願いを込めて名付けたらしい。
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