【前回の記事を読む】馬車の行く先は巣鴨。汚れた作業服を脱ぎ捨て、六時七分の外回りに乗れば六時半の開演に間に合う。

今宵、巣鴨の劇場で

元々、特に演劇好きだったわけではない。三年ほど前、たまたま千田オーナーの知り合いだった高校時代からの友人・鮎川翔太(あゆかわしょうた)に《千一夜劇場》で開催されるアマチュア劇団の公演に誘われ、「一度くらいなら」と付き合ったのが始まりだった。それまで生の舞台劇は一度も観たことがなかった。

しかし、その時観た二人芝居で、菫子は完全に舞台の虜になってしまった……と言うより、出演者の一人・八代丸征児に一目で心を奪われてしまったと言う方が正しいかもしれない。

芝居自体は粗削りではあったが、スケールの大きさというか型にはまらない規格外の個性と輝きを征児に感じたのだ。特に征児の目の輝きは、一般人にはないものだった。

「ねえねえ、スミちゃんは昨日の二人のうち、どっちが好みだった?」

翌日、事務所の会議室で一緒に昼の弁当を食べながら加代子がすかさず聞いてきた。

翔太と二人で舞台を見に行く……ということに少々気乗りがしなかった菫子は、職場の同僚である山下加代子も初劇場鑑賞に誘っていたのである。高橋印刷の従業員に女性は菫子と加代子の二人だけ。さっぱりした気性で思いやりのある加代子とは職場の同僚であると同時に、気の置けない友人同士でもあった。

「そうねえ、どちらも素敵だったけど」

心の中では――絶対、八代丸征児――と叫びながら、菫子は曖昧に言葉を濁した。

「あたしは断然、田中彼方(たなかかなた)さん。あの渋さと落ち着きがたまらないわ。うちの会社にはいないタイプ」

加代子が八代丸征児と答えなかったことに菫子は内心ほっと胸を撫でおろした。

二人一緒にワイワイ征児を応援するありがちなファンの立ち位置に自分を置きたくはなかったのだ。私ひとりが見て、私ひとりが応援して、私ひとりが理解する……いいえ理解なんて必要ない。征児が本当はどんな人物だったとしても関係ない。征児そのものが私の夢、私の輝きなのだから。

初めて征児の舞台を観て以来、毎週金曜日の夕刻、巣鴨の《千一夜劇場》に足を運ぶことが董子の習慣になった。八代丸征児が所属するアマチュア演劇集団《劇団びっくり箱 jack-in-the-box》の公演日が毎週金曜だったからである。