【前回の記事を読む】翔太が菫子を追い、完全に翔太が追えないほどには離れないように菫子が逃げる。この構図は高校時代から全く変わっていない

今宵、巣鴨の劇場で

菫子の方に恋人ができなかったわけではない。むしろモテた。だが、目ぼしい相手と試しに付き合ってみてもどうにもピンとこず、ごく短期間で自然消滅するのが常だった。

心地良い沈黙なら構わない。むしろ歓迎だ。が、菫子は相手の話に全く興味が持てなかったばかりか、二人の間にたびたび流れる気まずい間奏曲が耐えられなかった。暑苦しい饒舌を疎ましく感じるのと全く同じ重さで、菫子は冷えた沈黙が嫌いだった。相手もそれを察するのか、いつの間にか疎遠になっていくというパターンが続いた。

そんな菫子にとって、どんな時にもつかず離れずの距離にいてくれる翔太は貴重な相手。できれば本命が現れるまで近くにキープしておきたい。自分がされたら嫌だが、世の中の男女関係は多かれ少なかれ、そんな構図で成り立っているのではないか。

翔太から「付き合ってほしい」と告白されたことはない。だから本当は翔太が自分のことをいったいどう思っているのか、確実なことは菫子にもわからなかった。時には一年近く会わなかったりすることもあったが、久しぶりに再会してもそれまでと変わらぬ態度で接してくれる翔太は、菫子にとって実にありがたい存在でもあったのである。

そんなつかず離れずの関係が十年も続くとさすがに男と女としての付き合いに移行するのは難しい。男女の関係はタイミングがものを言う。

彼の姿から一瞬も目が離せず、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいとして耳をそばだて、昼も夜も寝ている間さえ彼のことが頭から消えない……恋ってそういうものじゃないかしら? 恋についてそんな思いを巡らせていた菫子の心を初めて射抜いたのが、八代丸征児だったというわけだ。

《千一夜劇場》には平凡極まりない自分の生活や殺風景な職場にはない非日常が息づいていた。

小さな舞台ではあったが、そこに躍動する知らない国の王子や王女、ロバに乗った商人やエキゾチックな衣装を纏った踊り子、手品師や魔術師……名もない市井の人々でさえ、スポットライトとフットライトに照らし出された煌びやかな世界では夢の国の住人だった。

演じているのがテレビや映画でよく見るような有名俳優ではないことも幸いした。無名の役者が演じることで、「あ、あの人が出てる」などと思わずに劇中の世界にのめり込むことができた。