アメリカの精神科医ロイ・B・ラクルシエール(および筆者自身)によれば、ワシントン・ライブラリー・オブ・コングレスと同じ場所にあるフロイト・アーカイブの『シュアー・ぺーパー』を吟味してみると、ジグムント・フロイトの死の実態が異なって示されているそうである。
フロイトの人生の最期の日々では、フロイト自身と妻のマルタ、娘のアンナに加えて、シュアー医師とシュトロス医師の間で、残酷な死に至る日々を短くすることについての暗黙の了解があったらしい。
1939年9月22日、シュアーは、フロイトに、最初のモルヒネを注射し、その後、致命的でない量のモルヒネを、もう1回注射している。その後で、まだ生きてはいるが意識がなくなっているフロイトのもとを立ち去ったようである。
その時に、その場に残っていたのは、娘のアンナ、家政婦のパウラ・フィヒトル、女医のジョゼフィーネ・シュトロスの3人だけであったという。この数時間後に、再度、投与量不明のモルヒネをフロイトに注射したのはシュトロス医師であった。フロイトは1939年9月23日に亡くなった注3注4。
フロイトを安楽死させるという問題が、少なくともシュアー医師とアンナ・フロイトの間でテーブルの上に上がっていたことは、シュアーがフロイトの娘に出した手紙によってフロイトの死後15年経ってから証明されている。
そこには「安楽死の問題に関しては、弁護士に相談するよう求められ……」「弁護士は、わたしがフロイトの病歴出版計画で提案したよりもずっと慎重な表現を使うようにわたしに要請していました。だから、最終的には、2種類の表現が完成したらすぐに全部を送ります」注5と記されていた。
ここでシュアーが水増ししたかったのは、フロイトの死を加速すること、すなわち彼の死に先立つモルヒネの投与回数と量のことだったのではないだろうか? 最後に女医シュトロスがフロイトに3度目のモルヒネを注射したことは注目に値するが、フロイトは、すでに意識を失っており、もはや苦しみはなかった。
フロイトは晩年、非常に弱っていた。また、アヘンに慣れていなかったため、特に、死期を早める呼吸抑制作用の影響を受けやすい状態であった。このことについては、主治医もよく知っていたのである。